おはようございます、ゆまコロです。
2000年のシドニーオリンピックの時の、村上春樹さんのルポタージュです。
冒頭の、アトランタオリンピック(1996年)の女子マラソンを、有森裕子選手の視点で書いた文章が好きです。
前にいるのはロバ、そしてエゴロワ、その二人だけだ。間違いない。二人だけだ。ひどく苦しい。しかし苦しいことは私の不幸ではない。逆に楽なことは私の幸福ではない。もっとも大事なのは、私がそこにいると感じられること、本当に心の底から感じられること。重要なのはそれだ。考えてみれば、ランナーとしての人生の中で、これまで走ることを楽しいと感じたことは一度もなかった。ただの一度もない。
また、ホームブッシュというオリンピックパークに作られた地域に村上氏が思いを馳せるところも良いです。
キャプテン・クックが船に乗ってやってきてからたった三百年足らずのあいだに、この土地は運命のままにあっちにやられ、こっちにやられしてきた。開発され、繁栄し、汚され、うち捨てられ、それからまたすくい上げられた。実に忙しい変遷だ。そこにいたるまでの六万年のあいだは、ずうううううっとのんびりと貝殻と石ころの交換だけをやっていたのにね。そのまま放っておいたら、きっと今でもアボリジニーの人たちはここで貝殻と石ころの交換だけをやっていただろうし、それに対してとくに何の不便も感じなかっただろう。文明というのはなんだか奇妙なものですね。不便さを改めることで、不自由さを作りだし続けているだけではないか。
この土地に英国人の植民者が来てからは、製塩を行ったのだそうです。
不思議なことだけど、百メートルのランそのものを目撃しているときより、そのあとに選手たちがくぐり抜ける一連の儀式を見ているときのほうが、人の身体性の純粋な輝きのようなものを、僕らは体感することができる。
百メートルの走りを現場で見ていると、速いのか速くないのか、正直言ってわからない。ほんとにあっという間に終わってしまうし、うまく何かと比較対照することができないのだ。(中略)
しかしすべて終わったとき、アスリートたちの表情や動作から、その虚脱感や、バケツの底を突き破ったような歓喜から、彼らがいかに速く走ったのかということが、ようやく僕にも飲み込める。そして感動のようなものがじわりとやってくる。これはなんというか、そう、一種宗教的だ。啓示的だ。(中略)
僕はこれまでに何度も百メートル競技をテレビで見てきたけど、そのような種類の自然な感動を感じたのは初めてだった。現場というのは生々しいものなんだなと思う。
この気持ちは何となく分かる気がします。
そしてこういう微妙な感情の起伏を、客観的かつ丁寧にすくい上げる描写がすごいなと思いました。
作中に出てきたシドニー水族館に行ってみたいです。
最後まで読んで下さってありがとうございました。