ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

ウワディスワフ・シュピルマン『戦場のピアニスト』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ウワディスワフ・シュピルマン、佐藤泰一(訳)『戦場のピアニスト』を読みました。

 

ポーランド出身のピアニストである著者の、1939年8月から、1945年1月までの行動を記録するような形式で、本書の大部分が構成されています。

 

1911年生まれの著者シュピルマンさんは、戦争の終わった1945年にこの本を執筆したそうですが、常に生命の危機にさらされていた逃亡生活の様子を、よく日記のように克明に再現できるものだと驚きました。

 

ドイツ軍のワルシャワ占領後(1939年9月27日)、ユダヤ系の人間はすべてのドイツ軍兵士に対し頭を下げなければならないという命令が出たり、ユダヤ人は一定額以上の現金を持つことができなくなったり、列車での旅行が禁じられたり(1939年12月頃)と、理不尽な布告が次々公示され、読んでいて憤慨するのにきりがないほどです。

 

 

 まもなく、はるかに大きな二つの出来事が人々の心を動かすことになる。そのひとつは、ドイツ空軍が英国に攻撃を開始したこと。もうひとつは、いくつかの通りの入り口に “この街路、チフス汚染につき、避けるべし” といった掲示が出され、通行人に告知したこと。この表示は後に、ユダヤ人のゲットーの境界を形づくることになる。

 

 少し後になって、ワルシャワ新聞(ドイツ人によってポーランド語で発行されている)だけが、この件について正式のコメントを出した。ユダヤ人たちは社会的な寄生者であるばかりか、汚染を広めている、というのだ。また、その記事によれば、ユダヤ人はゲットーに閉じ込められるに至っていないとある。もっとも、ゲットーという言葉は使ってはいないけれども。さらに、ドイツ人というのはきわめて教養があり寛大な人種なので、ユダヤ人のような寄生者であっても、ヨーロッパの新秩序にふさわしくない中世の遺物のようなゲットーに閉じ込めるにはとうてい忍びないとこである、と記されていた。

 その代わりに、ユダヤ人が自由を謳歌し、その特有の習慣や文化を営んでいける独立した、しかもユダヤ人だけが暮らす地区を市の一角に作るべきだというわけだ。純然たる衛生上の理由から、この地域を壁で囲って、チフスや他のユダヤ人の病気が市の別の場所に広がらないようにしなければならない。この人道主義を掲げる通告には、ゲットーのきわめて正確な境界を示す小さな地図もついていた。(p61)

 

 

物語序盤から気の滅入る場面の連続ですが、特に印象に残ったのは以下のシーンです。

 

 

  我々が列車のところまで行きつく前に、先頭の車輌はもう満杯になっていた。その中につめこまれた人々は互いに押し合いへし合いしながらかろうじて立っている状態。中から喚起を訴える大きな叫び声が上がるのだが、エスエス隊員たちはただライフルの台尻でつつくばかり。実際、塩素の強烈な臭いは列車からかなり離れていても呼吸を困難にさせる。床に大量の塩素が撒かれているとして、あの中は一体どんなことになっているのか?

 

 列車のほうまで半分ほど行ったとき、突然誰かが叫ぶのが聞こえた。

 

「ここだ!ここだ!シュピルマン!」

 

 誰かの手が私の襟をつかむや、いきなり後ろへ投げ飛ばされ、警察の隊列の外へ出されてしまった。

 

 何ということをしてくれるんだ?家族と離れたくない。家族とここにいたいんだ!

 一分の隙なく整列した警官たちの背中で遮られて、何も見えない。身体をぶつけてもとに戻ろうとしたが、彼らは列を開けようとしない。警官たちの頭の間から、ハリーナ(姉)とヘンリク(弟)に助けられて、母とレギーナ(姉)が貨車によじ登るのが見えた。父は私を探して、周りを見回していた。

 

「父さん!」私は叫んだ。

 父は私のほうを見て二、三歩駆け寄ろうとしたけれども、一瞬たじろいで立ち止まった。その顔は青白く、唇は神経質に震えていた。父は笑おうとしたができず、顔面を苦痛でいっぱいにしながら片手を上げ、あたかも私が生きることを開始し、彼はまるで墓の中から挨拶をするかのように、さよならの手を振った。それから、父は振り向いて貨車のほうへ歩いて行った。

 

 私は再度、警官の肩や背中に全力で突っかかった。

 

「父さん!ヘンリク!ハリーナ!」

 この極めて大切な最後の瞬間に、みんなと一緒に行くことができない。これが永遠の別れとなってしまうのかと思うと、恐ろしくなって狂人のように叫んだ。

 警官の一人が振り向いて、怒ったように私をにらんだ。

「一体、お前は何をやっとるのか?速く行けよ、助かったんだぜ!」

 助かっただと?何から助かったというのか。一瞬のうちに、私には貨車にいる人たちを待っている正体がわかった。髪の毛が総立ちした。

 

 背後をちらっと見た。がらんとなった収容地、鉄道線路、プラットフォームがあり、その向こうに街路が見えた。動物的な強迫観念に駆られた私は街路を走り、ちょうど出てきたばかりの評議会の労働者の隊列にもぐり込み、門をくぐり抜けた。(p120)

 

1942年8月16日、著者以外の家族全員は絶滅収容所送りとなります。こんなふうに、家族と別れたとしたら、自分はその後、生きる気力を保っていられるだろうか、と考えてしまいます。

 

 

 十一月が近づくとともに、寒さが忍び寄ってくる。とりわけ、夜はきつかった。

 孤独がもとで正気を失わないようにするために、できるだけ規則正しい暮らしを心がけようとした。まだ、時計を持っていた。戦前のオメガで、万年筆とともに私の掌中の珠である。この二つだけが、私の持ち物だ。念入りに時計を巻き続け、これによって時間表を作ったりした。とにかく、残されたわずかな力を維持すべく終日動かずにいる毎日。正午頃、一度だけ手を伸ばしてビスケットを食べ、節約して取っておいた水をカップに少しだけ飲んで、体力をつけた。

 

 朝早くからこの食事を摂るまで、目を閉じて横たわり、私がこれまで弾いてきた全ての作品を一小節ずつ心の中に思い浮かべた。後年、こうしたいわばメンタルな練習法が大変役に立つことがわかった。私が仕事に復帰した際、まるで戦時中ずっと練習してきたかのように、レパートリーとする作品が全て暗譜できていたのである。それから、昼食から夕暮れまでは、私が読んだ全ての本の内容を頭の中で系統的に組み立て直したり、英語の用語をそらで何べんも繰り返した。また、自分で問題を出し、正しくかつ詳しく答えを出すというような英語のレッスン法を考え出したりした。(p196)

 

 

勉強法も凄いけど、ピアノの練習法も凄い。

エピローグにもありましたが、この本を読んで感心したのは、シュピルマンさんが全般を通して、誰かを憎んだり、恨みがましい気持ちを抱いていないということです。もう自分の命もここまでか、と思う場面はいくつもあるのに、捨て鉢にならないで、なおかつ勤勉さを失わないでいられる気丈さには感服します。

 

『4歳の僕はこうしてアウシュヴィッツから生還した』よりもずっと怖かったです。

 

先月(2019年7月)、飛行機の乗り継ぎの関係で2時間弱ほどポーランドワルシャワに滞在しました。

 

その時にガイドさんから、この本の最後で、著者がドイツ軍兵士に見つかったのがこの建物ですよ、と教えてもらい、帰ったらすぐ読もうと思っていました。

 

巻末に載っている地図を手に、今度はゆっくりワルシャワを訪れたいと思います。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

戦場のピアニスト

戦場のピアニスト