ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

ジェイムズ・リーバンクス『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ジェイムズ・リーバンクス、濱野大道(訳)『羊飼いの暮らし イギリス湖水地方の四季』を読みました。

 

湖水地方で生まれた作者が、周囲のすすめでオックスフォード大学に通い、卒業して、家業である羊飼いの仕事に携わる日々が綴られています。

 

幼少の頃から羊飼いの仕事を手伝っていた主人公が、父親の仕事ぶりに追いつけないことを歯がゆく思い、そして尊敬していた祖父を亡くします。そのうちに父親に追いついて、自分が父よりも仕事ができるようになった頃に、父親の衰えに気づく描写が、時間の経過を感じさせます。

 

 数年後に一〇代半ばになると、私は父親から毛刈りの方法を教わった。できそうもなかった。私の動きは不器用でぎこちなく、羊もそれに抗うようなそぶりを見せた。完全なスタミナ不足で、大切なところで脚が動かなくなった。膝の曲げ方、足捌き、羊の動かし方……すべてがバラバラで、毛刈りに必要なリズムをつかむことができない。がんばればがんばるほど、逆に下手になる一方だった。

 父はいつも私よりも速く、手際がよかった。

 あきらめてその場から逃げてしまいたかった。

 男にとっても、体力的に過酷な作業だった。

 私が疲れを見せると、羊もそれを感じ取って暴れた。

 

 しかし、このような場所で成長すると、タフな仕事の連続によって甘い考えは消えていく。自分がもっとタフになるか、逃げ出すかしか選択肢はない。口先だけの人間はすぐにボロを出し、その場に坐り込み、自分を哀れみ、昼下がりにはもうへとへと。同じころ、ベテランの羊飼いたちは、いま仕事を始めたばかりのように黙々と働きつづける。

 父さんは羊のあいだからこちらをのぞき込んでは、「もう疲れたのか」と小馬鹿にするように訊いてきた。そのたび、殴ってやりたかった。何年ものあいだ、父に追いつくことはできなかった。負かしてやろうと奮起しても、さらにぼこぼこに打ちのめされるだけだった。やがて、私は父と競争するのをやめた。すると今度は、ときどき父に勝つようになった。私が成長するあいだに、父も歳を取ったのだ。地域一とまではいかなくても、現在、私はそこそこのスピードで羊の毛を刈ることができるし、腕も悪くない。それに、何日か毛刈りを続けて調子に乗ってくれば、速度はさらに少しずつ上がってくる。

(p60)

 

好きなのは、主人公の父親が野ウサギを捕まえる場面です。

 

 学校帰りのある夜、私は父と牧草地を歩き、雨が降るまえに雌羊たちの見まわりを終えようとしていた。と、父が不意に立ち止まり、「静かに」とささやいた。父は二〇メートルほど地面を這っていくと、帽子を手に取ってキツネのように飛びかかり、私のほうに向き直ってにやりと笑みを浮かべた。草の地面にかぶせた平らな帽子のなかには、産まれたばかりの野ウサギがひっそりと収まっていた。それまでの人生で見た、もっとも美しいもののひとつだった。子ウサギはとろんとした虚ろな眼でこちらを見やり、甲高い鳴き声を上げた。そのまま放すと、逃げてどこかに行ってしまった。ちょうど暗い綿状の厚い雲が頭上に覆いかぶさり、遠くのペナイン山脈のほうで雷鳴と稲光が発生していた。ランドローバーに急いで戻ったものの、私たちの体はすでに大粒の雨粒に濡れていた。

 (p127)

 

主人公が祖父と、父と、そして自分の住む湖水地方を代々守ってくれた先代たちへの敬意を持って暮らしているところが良いなと思いました。

 

 私は青いスウェードのブーツを履いている。理由は訊かないでほしい。十七歳の愚かな青年は、それがかっこいいと考えているのだ(一九九四年ごろのブラーのミュージックビデオに出てくる、エキストラのように見えていたにちがいない)。祖父が発作で倒れて入院したあとのある日、私は病院を訪れていた。祖父は口の端からよだれを垂らし、まるで捕らえられた動物のように見える。口の動きを制御できず、言葉をはっきりと発音できないことに祖父は腹を立てるが、そのせいでさらに何を言っているのかわからなくなる。病室の戸口でその姿を見た刹那、私は祖父が死ぬのだとわかった。それでも祖父は孫の登場に喜び、青いスウェードのブーツを見ておもしろがる。ほとんど話すことはできなかったが、片腕を伸ばし、私の足元を指さす。ろくに会話もできない今際(いまわ)の際の男が、私のファッションをからかっていた。父が病室に入ってくると、祖父はその手をつかみ、力を振り絞るように一単語だけつぶやく― 農場の名前。それから祖父は静かに横たわり、自分の土地のあらゆる出来事の詳細にじっと耳を傾ける。死にゆく男を前に悪いニュースを避けていやしないかと祖父は父と私に鋭い視線を向けてくる。何年も喧嘩ばかりだった父と祖父も、病室ではまるで親友同士に見える。ある意味、これほど穏やかな祖父の姿を見るのははじめてのことだった。彼は少し怯えたような顔で、何かを確かめるようにこちらを見つめつづける― これまでの俺の仕事の価値をおまえは認めてくれるか?祖父が心配する必要はなかった。そのときもいまでも、私は祖父の仕事に対して尊敬の念を忘れたことはない。

 祖父が私の顔をのぞき込むとき、実際に口を出すことはなくても、私たちは農場や家族についての幾千の考えを共有している。その瞬間の私はただの孫息子ではなく、祖父の生涯の仕事の後継者であり、未来へとつながる糸になる。祖父は私のなかで生きつづける。その声、価値観、物語、農場……すべてが未来に引き継がれていく。農場で作業をしているあいだ、頭のなかに祖父の声が聞こえてくることがある。その声はときどき、バカなことをしようとしている私を止めてくれる。私は少し間を置き、祖父がやりそうな方法に変えてみる。私という人間の大部分を作りあげたのは祖父だった。そう誰もが知っている。私の一部は、祖父そのものなのだ。

(p148)

 

 騒動から数カ月後、母と父は早々に賢い判断を下し、それまで賃貸で運営していたイーデン・ヴァレーの農場を手放す手続きを進めた(賃料を支払うと赤字の年もあった)。一年後に農場を閉じると、両親は地元の町の外れに家を買った。とりあえずは、湖水地方のマターデールにある祖父の農場だけを離れた場所から運営することになった。何カ月ものあいだ、私は父さんと一緒に準備を進めた。

 普通、いったん農場を離れた人間は、それまでとは別の人生を送るようになる。しかし私の場合、離れたことで逆に気づかされることになった。私にとって農場はすべての始まりであり、終わりだと。子どものころ、敷地の上のほうの外れにひっそりと建つ納屋の前で、祖父が「将来ここを家に改築して住むといい」と言ったことがあった。口蹄疫騒ぎのあと、祖父の言葉がまた脳裏によみがえり、それが私の目標になった。私はその夢とともに目覚め、その夢とともに眠りに就いた。それは、生きるか死ぬかの問題ではなかった。私にとっては、それよりもはるかに大事な問題だった。

(p252)

 

エッセイの合間に挿入されている羊たちの写真がとても可愛らしく、通勤電車の中で読んでいたりすると、猛烈に羨ましい気持ちになってきます。

しかし、生き物と生活するということは、当然旅行に行くこともままならなければ、お休みもないわけです。

夏も冬もたくさんのやるべき事柄に追われ、辛くないのかな、という疑問も読んでいるうちに浮かびます。そんな疑問に答えるかのような、作者の言葉がこちらです。

 

    私たちにとっては、クリスマスも休日ではない。ほかの日と何ひとつ変わりなく、クリスマスのあいだも羊は餌と世話を必要とする。酷なことに聞こえるかもしれないが、そうではない。はるか遠くの羊飼いの村で生まれ、飼い葉桶に寝かされた誰かさんの誕生日には、羊の群れの世話をしたり、畜牛に餌を与えたりするのが、なにより自然なことに思えるものだ。イブの晩、私たち家族は教会に行って友人や隣人たちとクリスマスを祝う。羊飼いをテーマにしたクリスマスキャロルを歌い、ミンスパイを食べるのが私は大好きだ。まえもってさまざまな準備を進めておくとクリスマス当日に楽ができるので、イブは必然的に慌ただしくなる。干し草台に餌を補充し、翌朝のための餌を袋に詰め、囲いを掃除し、クリスマス当日に仕事が増えないように種々のこまかなル―ティン作業をこなす。そこまで準備を進めておけば、クリスマス当日は群れに餌を与え、羊の健康状態に問題がないかを確かめるという必要最低限の作業だけで仕事は終わる。クリスマスの朝に家を出て真面目に仕事をするというのは、どこか気持ちのいいものだ。道路に眼をやると、濡れた灰色の路面を車が行き交っている。プレゼントを渡すために親類の家に向かうところなのだろう。隣人たちがそばを通り過ぎ、手を振ってくれる。四輪バギーのうしろに干し草の梱やシープ・ケーキを詰めた袋が積んであるところを見ると、谷周辺(あるいは、もっと遠く)の牧草地の群れの世話に行く途中にちがいない。羊への餌やりを終えて家に戻ると、私たち家族はゆったりくつろぎ、プレゼントと暴飲暴食の一日を楽しむ。

(p311)

 

限界地で生活する若い雌羊にとって、一匹の子羊を育てることは問題ないとしても、二匹を同時に育てるのはむずかしいことも多い、また、三つ子は必然的に小柄なので、悪天候になると病気や死のリスクが増すことになる。さらに、母乳が足りなくならないように、出産後に子羊を母親から引き離さなくてはいけない。ここの牧畜システムの根幹にあるのは、生産性を最大化することではない。この土地で持続可能な群れを作り出すことだ。

 湖水地方のような厳しい環境のなかで、どう農場を営みながら生活するか― その答えを導き出すため、多くの伝統的な共同体で数千年ものあいだ試行錯誤が繰り返されてきた。その教訓を忘れ、知識が失われていくのを見過ごすのはあまりに愚かなことだと思う。化石燃料が尽き、激しい気候変動にさらされる将来、そういった教訓や知識がもう一度必要になるときが来るかもしれないのだから。

 

 ユネスコの仕事のため、これまで私は世界じゅうの歴史的な土地を訪れてきた。なかには、湖水地方と似たような課題に直面する場所もたくさんあった。私は多くのファーマーと会って意見を交わし、実際に農場や家を訪問し、彼らが外の世界についてどう考え、なぜ現在の生活を続けているのか話を聞いてきた。観光市場はここ一〇年のあいだに大きく変わり、その土地の文化に根ざした価値をより重視するようになった。人々は張りぼての偽物に飽き飽きし、行動様式も考え方も食文化も異なる土地に行って、住民たちとじかに触れ合うことを望むようになった。西欧諸国の現代社会に暮らす人々の多くは、現在の生活にうんざりし、何かを変えたいと望んでいる。しかし人々が結束して闘えば、歴史を「義務」ではなく「強み」として利用し、未来を形作ることができる― それを目の当たりにした私は、牧畜を軸としたファーマーの生き方はまちがっていないと強く感じ、牧畜が湖水地方にとっていかに重要かを思い知るようになった。

 現在の正解を見、私たちがそこで生き残れるかどうかという問いに思いを馳せるとき、私の心は未来への希望でいっぱいになる。いまでは多くの若者たちが湖水地方に移り住み、牧畜を中心とした生活を始めている。彼らは誇りに眼を輝かせ、北国の土地と文化に強い愛を抱きながら働いている。この生き方がいまも続くのは、人々がそれを望むからにほかならない。誰も望まなければ、ずっと前に消滅していたにちがいない。もちろん、これまでと同じように、より現代的な生活に合わせてちょっとした変化と順応が必要にはなるだろう。けれど、核となるものはずっと変わらない。私たちファーマーはこれからもきっと、現在の生活を続けながら生きていける。この生活様式は、広く大きな利益のある何か― 他者が愉しみ、経験し、学ぶことのできる何か― を象徴するものなのだ。ワ―ズワースと同じように、私はそう信じている。

(p319)    

 

困難の中でも、自分の生き方を肯定している姿が大変まぶしく、元気を貰いました。

面白かったです。

 

本書の内容と関係はないのですが、ハヤカワ文庫は背が高く(「本書は活字が大きく読みやすい〈トールサイズ〉です。」と書いてあるもの。)、手持ちのブックカバーに入らないのがちょっと不便だなと思います。

侍女の物語』の時もそうでした。背の高さは揃えてほしいけどなぁ。あまり不便に感じる方はいないのでしょうか。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

羊飼いの暮らし──イギリス湖水地方の四季 (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)