ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

外尾悦郎『ガウディの伝言』

おはようございます、ゆまコロです。

 

外尾悦郎『ガウディの伝言』を読みました。

 

本書では、作者の外尾悦郎さんがガウディの建築と出会って、サグラダファミリアの専任彫刻家となるまでの道と、サグラダファミリアの建築の歴史、そしてガウディの生涯について書かれています。

 

生前からパリで展覧会が開かれる(1910年)ほど、評価されていたガウディですが、順風満帆とはいい難い人生に、もうちょっとなんとかしてくれる人はいなかったのだろうか?という気持ちになりながら読みました。

 

 

 成功する以上に多くの挫折を経験し、助けてくれる人に倍する敵をつくっていったと思われるのが、ガウディの人生です。

 

 たとえば一八八八年のバルセロナ万博のとき、ガウディは市庁舎の改築という、若い建築家にとっては栄誉ある仕事を市から依頼されていました。都市が飛躍を賭けて臨む万博に、地元の建築家として携わるわけですから、当然、ガウディも張り切ったと思います。ところが、設計を終え、申請が通るのを待っていたガウディに理由も知らされないまま、その仕事はドメネク・モンタネール(ガウディより3つ年上の建築家。上流階級の家に生まれ、政治的な人脈があり、のちに国会議員になる。ゆまコロ注)に委ねられることになりました。おそらくこれは表面的な出来事で、水面下では、いくつもの仕事がガウディに渡る前に握り潰され、あるいは横取りされていたんでしょう。証拠を挙げることはできませんが、当時すでに一大勢力になっていたはずのモンタネール派の建築家たちに、カタルーニャで頭角を現しつつあったガウディという目障りな建築家を、今のうちに潰しておこうとする意図があったのかも知れません。ガウディは生涯、そういう公式の記録には残らない苦労も多く重ねていったと思います。

 

 とはいえ、この万博で示されたモンタネールの実力は凄まじいものでした。メイン会場となったモデルニスモのカフェ・レストランや高層ホテルをはじめ、いくつもの建物を同時に手がけ、しかもそのどれをも短い工期で完璧に仕上げた手腕は、当時、世界的に見ても並ぶ者がなかったと思います。バルセロナ万博で活躍した後も、栄誉は常にモンタネールの上に降り注ぎました。彼のような性格と実力を持つ人物が先にいたからこそ、ガウディがまったく対照的な人生を歩むことになったという面もあるのかも知れません。

 

 万博の翌年、一八八九年に工事が始められたアストルガ司教館も、ガウディは最後までつくりきることができませんでした。その経緯の発端は、一八九三年にグラウ司教が突然の事故で他界したことです。敬愛する師を失ったガウディに向けられたのは、励ましや慰めの言葉ではなく、建築プロジェクトを推進する人々からの「カタルーニャへ帰れ!」というバッシングでした。

 

 おそらく、余所(よそ)者でありながら司教に可愛がられていたガウディへの嫉妬や、カタラン語でしか話さない剛直な性格への反発が、もともと彼らの中にあったんでしょう。それを抑えていた偉大なボスがいなくなると、ガウディは身動きが取れなくなり、主任建築家を辞任せざるを得なくなりました。非常に残念な出来事だったと思います。

 

 また、同じ一八九三年には、モロッコのタンジールに建設することが予定されていたカトリック伝道館の計画も、中止がほとんど確定的になっていました。これもガウディが情熱を傾けて構想し、着工できなかったことを晩年まで悔やみ続けた建物です。こうした建築家としての相次ぐ流産は、ガウディを肉体的・精神的に疲労させていったと思います。(p211)

 

 

 

この後、ガウディは失意の中、命にかかわるような断食を決行します。

しかし、あなたは大聖堂を完成させるという使命を受けている、と司教に言われ、断食を中止して再びサグラダファミリアの建設に取り掛かりました。

 

ライバルの建築家ドメネク・モンタネールがもてはやされ、時代の寵児として愛されたのに、モデルニスモカタルーニャ地方の芸術様式)の時代が終わり、ノウセンティスモ(1900年代主義)の時代になると、彼も表舞台から姿を消します。

 

モンタネールとガウディの建築を見て回りたくなります。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

ガウディの伝言 (光文社新書)

ガウディの伝言 (光文社新書)