おはようございます、ゆまコロです。
トーベ・ヤンソン、鈴木徹郎(訳)『ムーミン谷の十一月』を読みました。
物語は、なんだか思い通りにならなかったり、ふとしたことでつまづいたりと、いろんな不満を抱えた登場人物たちが、以前に訪れたときの楽しい思い出を思い出し、ムーミン谷を目指すところから始まります。
ムーミン谷へ出発する前のヘムレンさんの、元気のない朝の様子に、なんとなく親近感を覚えます。
「ヘムレンさんは、ねむい目をこすりこすり、やっと目がさめました。目がさめきってみると、自分は、やっぱり、いつもの自分です。ちっともかわっていません。
ああ、いやだなあ。もう、ぼくは自分がいやになった。なにか、ぼくの知らない、ちがったものになりたいなあ。
ヘムレンさんは、ゆうべ、ベッドにはいったときよりも、もっとうんざりしていました。
—また、一日がはじまるんだ。夜までつづいて、また、あくる日がやってきて、また、やってきて、いつまでたっても、きまりきったヘムレンのくらしが、毎日毎日つづいていくんだ。
ヘムレンさんは、ふとんの中に深くもぐりこみ、鼻をまくらにあてて、ぐいぐいおしつけました。それから、おなかを、つめたいシーツのはしのほうへずらしました。ベッドいっぱい大の字になって、両手と両足をひろげて、たのしいゆめを見るまで、じっと待っていました。いつまで待っても、たのしいゆめなんて、見られっこないんですけどね。」(p41)
方々からいろんな仲間が集まるのですが、留守なのかムーミン屋敷には誰もいなくて、集まった皆はそこで共同生活を送ります。
玄関には鍵をかけたことがないムーミン屋敷なのに、室内には鍵のかかったタンスがあったりして、時々、薄気味悪さを感じます。
「(ぼくは、連中のところへ出かけていかなきゃいけない)と、スナフキンは思いました。(思い出してばかりいるよりも、いっしょにいたほうが、まだましだ。連中ときたら、ムーミンたちとは大ちがいだ)
はっと、きゅうにスナフキンは、ムーミン一家がこいしくて、たまらなくなりました。ムーミンたちだって、うるさいことはうるさいんです。おしゃべりだってしたがります。どこへいっても、顔があいます。でも、ムーミンたちといっしょのときは、自分ひとりになれるんです。いったい、ムーミンたちは、どんなふうにふるまうんだろう、と、スナフキンはふしぎに思いました。夏になるたびにいつも、ずっといっしょにすごしていて、そのくせ、ぼくが、ひとりっきりになれたひみつがわからないなんて。」(p118)
この後、ちょっとした事件があり、我を忘れて怒る、貴重なスナフキンが見られます。
作中では上記のスナフキンのように、それぞれが抱いている、ムーミン一家のイメージについて語られるのですが、肝心のメンバーは一度も姿を現さず、最後に屋敷に帰ってきそうなことをちらっとうかがわせるだけです。
これがムーミンシリーズ全9作の最後の巻なのですが、近くて遠い、ムーミンたちの存在を思わせる、なかなか素敵な幕切れだと感じました。
最後まで読んで下さってありがとうございました。