ニジタツ読書

マイペース会社員のゆるふわ書評。なるべく良いところを汲み取ろうとする、やや甘口なブックレビューです。

ポール・オースター『闇の中の男』を読んで

おはようございます、ゆまコロです。

 

ポール・オースター柴田元幸(訳)『闇の中の男』を読みました。

 

作中で更に違う物語が展開される「物語中物語」が面白い(場合によると本編よりも)のは、オースター作品ではよくあることですが、今回は物語中物語とメインの話との関係が近い感じがします。

(語り手の老人を、物語中物語の青年が殺そうとしているので。)

 

他に、ユダヤ系の家族のもとに育った少女がナチス親衛隊の大尉から手紙をもらう話や、主人公の妻の又従兄が恋した先生が辿った強制収容所での末路など、ドキドキしました。(フィクションとは思えないのですが、どうなんでしょう。)

 

でも、物語終盤で明かされる、主人公の孫娘のボーイフレンドがイラクに行った事件がもっとも衝撃的でした。

 

そんな盛りだくさんの話の中で、突然主人公による書評や映画の話が出てきます。

この中で語られる一つ、『東京物語』(小津安二郎監督)の話が、オースターらしい感想で興味深いです。

 

  老人はまずノリコに、いろいろ本当にありがとう、と礼を述べる。だがノリコは首を振って、いいえ、何もしてさし上げられなくて、と答える。老人はなおも言う。いやいや本当に助けてもらったよ、あんたがどれだけよくしてくれたかお母さんも言っておったよ。ノリコはふたたびその賛辞に抗い、わたくしのしたことなんてつまらないどうでもいいことです、と片付ける。老人はそれでもなお、ノリコさんと一緒だったときが東京にいて一番楽しかったとお母さん言っておったよ、と彼女に告げる。そしてさらに、お母さんあんたの将来をひどく心配しておったよ、と言う。あんた、このままじゃいかん。再婚せんといかんよ。Xのことは(老人の息子、ノリコの夫のことだ)忘れなさい。あの子はもういないんだから。

  ノリコは見るからに落着きを失い、答えを返すこともできないが、老人の方はここで引き下がる気はない。ふたたび自分の妻に言及して、さらに言う。あんたほど素晴らしい人はいないとお母さん言っておったよ、ノリコもあとには引かず、お母さまはわたくしのことを買いかぶっていらしたんですと返すが、いやいやそれは違う、と老人は言い放つ。ノリコはもうすっかり取り乱している。わたくし、お父さまやお母さまが思ってらっしゃるようないい人間じゃないんです、と彼女は言う。わたくし、ほんとにずるいんです。そして彼女は、いまではもういつも老人の息子のことを考えているわけではないのだ、彼のことが一度も頭に浮かばぬまま何日も過ぎたりするのだと明かす。それから少し間を置いて、いま自分がひどく寂しい思いでいて、夜眠れないとき寝床に横になったまま自分はこれからどうなるのだろうと思ったりすると打ちあける。わたくしの心が何かを待っているみたいなんです、と彼女は言う。わたくし、ずるいんです。

 

老人   いやあ、ずるうはない。

ノリコ  いいえ。ずるいんです。

老人   あんたはええ人じゃよ。正直で。

ノリコ  とんでもない。

 

  その時点で、ノリコはすっかり自制を失い、泣き出す。水門が開くとともに、彼女は両手で顔を覆ってすすり泣く。あまりに長いあいだ、この若い女は何も言わずに苦しんできた。自分がいい人間だということをこの女は決して信じようとしない。なぜならいい人間だけが自分の善良さを疑うからだ。だからこそそもそもいい人間なのだ。悪い人間は自分の善良さを知っているが、いい人間は何も知らない。彼らは一生涯、他人を許すことに明け暮れるが、自分を許すことだけはできない。

(p94)

 

 

オースターが映画の中で感銘を受けたシーンを丁寧にすくい取っていて、作品への愛が感じられます。

 

またこの本で印象深いのは、(本編ではなくて恐縮なのですが、)あとがきの中でオースターが911に関して答えたインタビューです。 

 

 当時の日々を私ははっきり覚えている。まだわずか七年前のことだ。当時、ずいぶんたくさんインタビューを、外国の報道機関相手のインタビューを受けた。ここブルックリンで、わが家に煙が流れ込んでくるなか、私は何も書ける状態ではなかった。実際、当時は「幻影の書」を書き終えたばかりで、どのみち何もしていなかったところへ、ヨーロッパや日本のラジオ局やテレビ局から次々電話がかかってきてコメントを求められたんだ。そしてこのときばかりは、私も応じた。自分が何度も何度もこう言ったことを覚えている――

「恐ろしいことが起きました、それは確かです。

 しかし、これは我が国にとって一種の目覚めよコールであるべきです。私たちはいま、自分たちを創り直す大きな機会を手にしています。石油とエネルギーに関して自分たちの立場を考え直し、よその文化、よその国々との関係を考え直し、なぜよその人々が私たちを攻撃したいと思うのかを考え直すチャンスなんです」。

 そうやって、いろんな提案を私は口にした。私はいまでも、私たちがこの国に意味ある変化をもたらす絶好の機会を逃したと信じている。アメリカの国民は、そうした変化を起こす態勢も気持ちもできていたと思う。なのにブッシュ政権が、過度に単純な、ほとんど病的に愚かしい対応をしてしまった。それができたのは、みんなが持っていた恐怖心につけ込んだからだ。もともとみんなの心にあった正当な恐怖心に加えて、ブッシュとその相棒どもはさらに恐怖を煽り、国民を従わせたんだ。

(2008年9月6日、The A. V. Club インタビュー。http://www.avclub.com/article/paul-auster-14299)

(p229)

 

いつものオースター作品と比べると、若干寄せ集め感を感じなくもないですが、でも面白かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

 

アビジット・V・バナジー, エステル・デュフロ『絶望を希望に変える経済学』を読んで

おはようございます。ゆまコロです。

 

 アビジット・V・バナジーエステル・デュフロ、村井章子(訳)『絶望を希望に変える経済学』を読みました。

『ファクトフルネス』に似ていると聞き、読んでみました。

 

この本で印象に残ったのは以下の部分です。

 

 

自分と同類とばかり一緒にいると、ちがう視点に立てなくなり、ちがう価値観を理解できなくなる。これは大きなデメリットだ。その結果、ワクチン接種が自閉症の原因になるといった根も葉もない主張がいつまでもはびこることになる。すでに述べたように、人々は合理的な判断に基づき、自分自身の意見を引っ込めてまで集団に従うものだ。だが、集団の外の意見が遮断されていたら、事態は一段と悪化するだろう。最終的には異なる意見を持つ排他的な集団がそれぞれに孤立し、他の集団とはほとんどコミュニケーションをとろうとしなくなる。法学者のキャス・サンスティーンは、こうした現象をエコー・チェンバー[残響室]に喩える。同じような意見を持つ人たちが長い残響が生じる部屋にこもり、互いの言うことがわんわん響く中で同じ考えばかりを延々と聞いている、というほどの意味だ。

 

 その結果として生まれるのが極端な二極化である。二極化現象は、客観的な事実を巡っても生じることがある。たとえばアメリカ人の四一%は人間の活動が地球温暖化を招いたと考えているが、ぴったり同じだけの人が温暖化は自然の周期的現象である(二一%)、または温暖化など存在しない(二○%)と考えている。ピュー研究所が地球温暖化に関する世論調査をしたところ、人々の意見が政治的立場に沿ってほぼ真っ二つに分かれていることがわかった。大気温の上昇を示す確かな証拠があると考える人は、民主党支持者のほうが共和党支持者より圧倒的に多い(八一%対五八%)。また人間の活動が原因だと考える人も、同様の傾向を示した(五四%対二四%)。だからといって、民主党支持者のほうが科学を信奉しているとは言えない。

 たとえば遺伝子組み換え食品は健康に悪いとは言えない、というのが科学界の一致した意見だが、民主党支持者の多くは、そうした食品を避けられるよう、遺伝子組み換えの表示をしてほしいと考えている。

 

 いつも同種の人とばかり一緒にいると、ほとんどの問題について同じ意見を持つようになる。集団の強硬な意見を前にすると、政治に関して是々非々で臨むことは次第に困難になってくる。たとえ集団の意見は正しくないと個人的には感じていても、だ。それを端的に物語るのがアメリカ議会である。

 民主党議員と共和党議員は、もはや同じ言葉を使っていない。政治経済を専門とするマシュー・ジェンツコウとジェシー・シャピロは、下院の現状をこう語る。「民主党議員が 不法就労者”と呼ぶものを共和党議員は、不法入国者』と呼び、民主党議員が~富裕層向け優遇税制』と呼ぶものを共和党議員は税制改革と呼ぶ。二〇一〇年医療保険制度改革法[いわゆるオバマケア]にいたっては、民主党にとっては包括的な医療改革、だが、共和党からすれば “政府による医療の乗っ取り" だ」。こうした状況だから、いまや議員の口から出る言葉を聞くだけで、その人の政治的立場を簡単に推定できるようになった。党派固有の言葉を使うという意味での党派性は、ここ数十年で大幅に強まっている。一八七三年から一九九〇年代前半まではそれほど変化はなく、強い党派意識が認められる議員は全体の五四%から五五%に増えただけだが、一九九〇年以降に急増し、第一一○回議会(二〇〇七~〇九年)には八三%に達した。

 

(p186)

 

 

 

違う価値観を理解できなくなり、他の集団とコミュニケーションを取らなくなる、というところに怖くなりました。

 

 ここまでに論じてきたように、他人に対する反応は自らの尊厳やプライドと深く関わっている。人としての尊厳を重んじる社会政策でなければ、平均的な市民の心を開き、寛容な姿勢を生み出すことはできないのではないかと強く感じる。

 政府の政策としては、集団のレベルで介入できることもある。人種差別、反移民感情、支持政党のちがいによるコミュニケーションの断絶といった問題の多くは、初期段階で接触のないことに原因があると考えられる。心理学者のゴードン・オルポートは、一九五四年に「接触仮説 [contact hypothesis]」を発表した。適切な条件の下では、人同士の接触が偏見を減らすうえで最も効果的だという考え方である。他人と時間をともにすることで、相手をよく知り、理解し、認められるようになる。その結果、偏見は消えていくという。

 

 接触仮説の正否を確かめる実験が何度も行われてきた。最近発表された実験評価では、二七件のランダム化比較試験(RCT)を精査し、全体として接触は偏見を減らすことを確認した。ただし接触の性質が重要であると注意を促している。

 もしこれが正しいなら、学校や大学は重要な存在になる。異なるバックグラウンドを持つ子供たちや若者が、まだしなやかな心を持つ年齢のときに一つの場所で一緒に過ごすのだから。アメリカのある規模の大きい大学では、一年次にルームメートがランダムに割り当てられる。一年次の学部生を対象に調査を行ったところ、たまたまアフリカ系アメリカ人と同室になった白人学生は、アファーマティブ・アクションを強く支持するようになったことがわかった。また移民と同室になった白人学生は、自分でルームメートを選べる二年次以降になってもマイノリティと進んで付き合うようになったことが確かめられている。

 

 このような接触はもっと早い時期から始めることも可能だ。デリーで二〇〇七年に導入されたある政策は、生まれも育ちも異なる子供を一緒にすることの効果を雄弁に物語っている。この政策では、デリーのエリート層向けの私立小学校に貧困家庭の児童の入学枠を設けることを義務づけた。この政策の効果を調べた秀逸な実験がある。実験では、貧しい生徒の入学枠が設けられている学校と、そうでない学校でランダムに選んだ子供たちに、リレーのメンバーを選ぶ役割を与えた。また前者の学校では、さらにランダムに子供たちを分け、一方は貧しい子供と一緒の勉強グループに入れ、もう一方はそうしなかった。リレーのメンバーを選ぶ前にかけっこのテストを実施し、誰が速いか見きわめられるようにした。ただし選ぶには条件がある。メンバーに選んだ子供と一緒に遊ぶ約束をすることだ。結果は鮮烈だった。入学枠のない学校の富裕な家庭の子供は、貧しい子をメンバーに選ぼうとしなかった。貧しい子のほうが足が速かったのに、である。入学枠があり貧しい子をすでに見慣れている子供は、たとえ貧しくても足の速い子を選んだ。その子と遊ぶことも別に苦にならなかったのだろう。そして、貧しい子と一緒の勉強グループにいる子供は、一緒に走ろうと積極的に誘って遊んだ。慣れ親しんでいるというだけのことが、この魔法のような効果を発揮したのである。

 

(p200)

 

 

ちょっといい話です。

偏見をなくすヒントがあるように思いました。

 

 中国は、ベトナムミャンマーと同じく市場経済を採用してはいる。だが資本主義への中国のアプローチは、古典的なアングロサクソン・モデルともヨーロッパ・モデルともかなりちがう。二〇一四年にフォーチュン・グローバル五○○社にランクされた中国企業九五社のうち七五社までが、一見すると民間企業のように経営されているが、実際には国営なのである。

 また、中国の銀行の大半も国営である。国レベルでも地方レベルでも、政府は土地や信用をどう割り当てるか決めるうえで中心的な役割を果たしている。政府は企業の人事にも介入するし、産業別の労働者の割り当ても指示する。さらに中国は人民元のレートをここ二五年にわたって実力以下の水準に維持し、その代償として超低金利アメリカに何十億ドルも貸す格好になっている。加えて土地はすべて国家の所有である中国では、どの土地を誰が耕作してよいかを地方政府が決めているのだ。これが資本主義だと言うなら、中国型資本主義とでも言うほかあるまい。

 昨今もてはやされている中国経済の奇跡を予想していた経済学者は、一九八〇年には、いや一九九○年にもほとんどいなかった。しかしいまでは、貧困国のどこかが中国をお手本にしないのはなぜだろう、という質問が経済学者から出るまでになっている。もっとも、中国の発展過程のうちどこをまねすればいいのかははっきりしない。貧しく汚かったが教育と医療だけはすばらしく、所得分配が均等に行われていた鄧小平の中国だろうか。それとも、かつてのエリートの文化的優位を一掃し万人平等を実現しようとした文化大革命時代の中国、あるいは日本の侵略と屈辱を受けた一九三〇年代の中国、あるいは中国五○○○年の歴史そのものだろうか。

 日本と韓国の場合は、もうすこし話が簡単になる。両国はいずれも政府が積極的な産業政策を導入し(今日でもある程度はそうだ)、どの産業を輸出産業として振興すべきか、どこにどれだけ投資すべきかを指導していた。またシンガポールでは、国民は所得のかなりの割合を強制的に中央積立基金に徴収され、当人の医療費や年金に充当される。

 こうした特徴的な政策が経済学者の間で話題になるときはいつも、日本や韓国やシンガポールが驚異的な成長を遂げたのはこうした政策を実行したからなのか、それともこのような政策が行われたにもかかわらず成長したのか、ということが問題になる。そして読者のご想像のとおり、結論は出ない。東アジア諸国は単に幸運だったのか、それとも彼らの成功から学ぶべきことはあるのだろうか。これらの国々はいずれも高度成長を遂げる前に戦争で荒廃している。となれば、高度成長の一部は自然な揺り戻しだった可能性はある。東アジア諸国の経験から成長の要因を抽出できると考える人たちは、まだ夢を見ているのだろう。成長の決め手といったものは存在しないのである。

 

(p269)

 

 

 アジアに対する客観的な考察が興味深いです。

 

 本章でこれまで論じてきたことを総合すると、経済成長について何がわかったと言えるだろうか。まず、ロバート・ソローは正しかった。一国の一人当たり所得が一定の水準に達すると、たしかに成長は減速するように見える。技術の最先端にいる国、これは主に富裕国だが、これらの国々における全要素生産性(TFP)の伸びは、謎である。どうすればTFPを押し上げられるかはわかっていない。

 そして、ロバート・ルーカスもポール・ローマーも正しかった。貧困国にとって、ソローの言う収束は自動的には起きない。これはおそらく、スピルオーバー効果が期待できないからだけではあるまい。貧困国のTFPの伸びが先進国より大幅に低いのは、市場の失敗が最大の原因だと考えられる。裏を返せば、事業経営に適した環境が整っていれば市場の失敗を是正できる限りにおいて、アセモグル、ジョンソン、ロビンソンも正しかったことになる。

 それでもなお、彼らはみなまちがっていた。一国の経済成長も一国のリソースも総和として捉え(労働力人口、資本、GDPなど)、その結果として重要なことを見逃してしまったからである。非効率なリソース配分についてわかったことを踏まえると、私たちがすべきなのはモデルで考えることではなく、現実にリソースがどう使われているかを見ることだ。ある国がスタート時点ではリソース配分がひどくお粗末だとしよう。たとえば共産主義経済だった頃の中国や極端な経済統制を行っていた時期のインドがそうだ。このような国では、リソースを最適の用途に再配分するだけで大きなメリットが得られる。中国のような国があれほど長期にわたって高度成長を続けられたのは、彼らが人材や資源をまったく活用できていない状態からスタートし、それを最適活用できるようになったからだと考えられる。このようなことは、ソロー・モデルでもローマー・モデルでも想定されていない。彼らのモデルでは、成長するためには新しいリソースか新しいアイデアが必要だということになっている。これが正しいなら、無駄になっていたリソースの再配分が一段落すると、成長のためには新たなリソースが必要になるので、成長に急ブレーキがかかることになるのかもしれない。中国の成長鈍化の可能性について多くの分析がなされてきたが、とうとう現実に成長は減速しているし、これは将来も続きそうだ。中国の指導者がいま何をしても、この流れは止まらないだろう。中国はキャッチアップをめざしてひた走っていた時期にハイペースでリソースを蓄積し、あきらかに非効率な配分は是正された。したがって、現在では改善の余地が乏しくなっている。中国経済は輸出に依存しているが、世界最大の輸出国になってしまったいまとなっては、世界経済の成長より速いペースで輸出を拡大することはもはや不可能だろう。中国は(そして他国も)、驚異的なスピードで成長できる時代はもう終わりに近づいているのだという現実を受け入れなければなるまい。

 

 ではこの先どうなるのか。これについては、アメリカはすこし安心できそうだ。一九七九年にハーバード大学教授のエズラ・ヴォーゲルが『ジャパン・アズ・ナンバーワン』 [邦訳:TBSブリタニカ] を発表し、日本はもうすぐすべての国を抜き去って世界一の経済大国になると予言した。欧米は日本モデルから学ぶべきだと教授は主張している。良好な労使関係、低い犯罪率、すばらしい学校教育、エリート官僚、先見的な政策こそが恒久的な高度成長の処方箋だというのである。たしかに教授の言うとおり、日本が一九六三~七三年の平均成長率をその後も続けていたら、一人当たりGDPで一九八五年にはアメリカを抜き、一九九八年にはGDP総額でも抜いていたはずだ。だがそうはならなかった。『ジャパン・アズ・ナンバーワン』が出版された翌年の一九八〇年に日本の経済成長率はがくんと落ち込み、その後は以前の水準に戻っていない。

 ソロー・モデルによれば、理由は単純だ。低い出生率とほぼ移民の流入がないせいで、日本の人口が急速に高齢化したからである(それはいまも続いている)。生産年齢人口は一九九〇年代後半にピークを打ってからは減り続けている。したがって、成長を維持するためにはTFPが以前にも増して伸び続けなければならない。さもなくば、何か奇跡を起こして労働生産性を大幅に押し上げるほかない。なにしろ、どうすればTFPを伸ばせるかはわかっていないのである。

 日本が絶頂期にあった一九七〇年代には、奇跡が可能だと考える人もいた。彼らは貯蓄をし、一九八〇年代に入って成長が鈍り始めたにもかかわらず日本に投資し続ける。一九八〇年代のいわゆるバブル経済の中、あまりに多くの資金がわずかばかりの有望そうなプロジェクトに投じられた。その結果、一九九〇年にバブルが崩壊すると、銀行は多額の不良債権を抱えて立ち往生することになる。一九九〇年代の日本は危機に翻弄された。

  中国はいまある意味で同様の問題に直面している。中国も高齢化がハイペースで進行中だ。その一因は一人っ子政策にあり、この政策の影響を逆転するのはむずかしい。中国の一人当たり所得はいずれアメリカに追いつくのかもしれないが、現在の成長鈍化を見る限りでは、それはだいぶ先になるは中国の成長率が年五%に落ち込んでそのまま横ばいになることは大いにあり得るし、これでもかなり楽観的な予想と言えるだろう。そしてアメリカの成長率が一・五%程度まで戻してくれば、中国が一人当たり所得でアメリカに追いつくのは最低でも三五年はかかる計算だ。思うに中国政府はソローの言うことを受け入れてすこし気を楽にすべきだろう。そう、成長というものは減速するのである。

 おそらく中国はそのことに気づいており、国民にこの事実を知らせようと意図的に努力もしている。それでも、彼らの掲げる成長目標はいまだに高すぎるようだ。危険なのは、指導部がその目標に縛られてしまい、なんとしても成長を取り戻そうと偏った決定を下してしまうことである。日本はまさにこれをやっていた。

 もしリソースを非効率に配分すれば経済成長を牽引できるなら、あれこれ奇抜な戦略を採用すれば成長を実現できることになる。一国の中でリソースを歪んだ形で割り当てるような戦略は、これに該当するだろう。たとえば中国と韓国の政府は、規模が小さすぎて経済上のニーズを満たせていない部門を見極め(過去に鉄鋼や化学品など重工業を優遇してきたせいである)、政府による投資その他の介入を通じて資本を優先的にこうした部門に投下し、効率的なリソースの活用を促進した。

 この戦略は両国ではうまくいったが、だからと言ってどの国でもうまくいくとは限らない。経済学者は一般に産業政策というものを非常に警戒する。これにはもっともな理由がある。国家主導で行われた投資の過去の成績は、ひどくお粗末なのである。たとえ誰かお友達や既得権団体を依店贔屓しない場合であっても判断ミスが多いうえ、依店贔屓が横行しているのだからなおさらだ。市場の失敗があるのと同じで、政府の失敗も大ありである。

 

(p290)

 

 

成長にとらわれ過ぎるとその先には何が待っているのか、よく考える必要があると思いました。

 

論点は『ファクトフルネス』と近いものがあるけど、ではどうしたら良いのか?というところに踏み込んでいるのが、好感が持てました。

電車で読むのはちょっと重かったけど、読んで良かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

 

マリア・シャラポワ『マリア・シャラポワ自伝』

おはようございます、ゆまコロです。

 

大阪なおみ選手、国枝慎吾選手、全米オープン優勝おめでとうございます。

今回の本はテニスに関連して、マリア・シャラポワ、金井真弓(訳)『マリア・シャラポワ自伝』です。

 

 ボールを打つことはいつでも大好きだった。4歳のときからずっと。ボールを打てば、どんな問題も片づいてしまう。ウィンブルドンで悔しい負け方をして、うまくいくはずだったことが失敗したら?ラケットを取り上げてボールを打とう。ガットに当たるボールの感触、体を駆け巡る興奮が何もかも解決してくれる。ボールを打っていると、今現在へと心が戻ってくる。花が咲き、鳥が歌っているところへ。世界の反対側から悪い知らせが届いたって?祖母が亡くなり、長時間のフライトと葬儀が待つだけだって?ラケットを取ってボールを手にしよう。そして打つのだ。ルールが変わったことを知らなくて、突然、何年ものんでいた薬にすべてを破滅させられたって?ラケットを取り上げてボールを打つのよ!(p13)

 

私事ですが、ゆまコロはテニスを始めて3年目です。まだ経験者には全く歯が立たないほどの稚拙なプレーヤーですが、そんな私にも、「花が咲き、鳥が歌っている」という表現は分かる気がしました。目の前のことだけに集中できる喜びや面白さを表しているのだと思いますが、親近感が湧きます。

 

14歳の頃にはトーナメントでプレーするようになっていたシャラポワですが、その時点で既に身長188センチとなった彼女は、体の成長についていけず、自分の手足をうまく扱えなくて、連敗が続くようになります。その頃を振り返った描写がこちら。

 

「何が起こっているの?」と考えたことを思い出す。両親もわたしの変化に気づいていた。このときまではとてもうまくいっていたのだ。年齢別のランキングで上位になり、ほとんど毎回、決勝に進んでいた。なのに、今はどうだろう!悪戦苦闘していた。両親はわたしを助けようとしてくれたが、自分以外の人間にできることは限られている。結局、自力で解決するしかない。前途有望なキャリアを持った多くのプレーヤーがこんな形で終わってきた。そんな選手たちの名も、彼らの悲しい物語も世間は知らないだろう。そのようなプレーヤーのリストに自分の名も連なるのかという恐れ。悪夢だったし、不確実なことだらけだった。でも、あとから振り返ると、そんな経験が最終的には有益だったと思う。勝利している間は、すべてが計画どおりに運んでいる間は、誰でも落ち着いて冷静でいられる。でも、連敗しているときはどう対処したらいいのか?大きな問題だ。プロをアマチュアと分ける教訓だろう。

 

 実際のところ、勝利よりも敗北から学ぶもののほうがはるかに多い。テニスというゲームや自分自身について。叩きのめされても、起き上がれるだろうか?突き進んでいけるだろうか?自分の仕事がふいに無意味なものに思えたとき、単に試合のためだけの試合をしているとき、みんなを失望させているのではないかと不安なときに。倒されても、もう一度だけ立ち上がれるだろうか?あるいは、やめてしまう?それこそ、何年も前にヤドキンが話していたタフさだった。災難が実際に降りかかってくるまで、自分がどんな反応をするのか誰にもよくわからないものだ。

 

 わたしが自信を完全に失ってしまうことはなかった。たぶん若すぎて、自信という概念を知らず、自信が必須のものだということを充分には悟っていなかったのだろう。わたしは自信を持っていただけだった。自分の勝利を信じずに試合に出たことはなかった。負けたときでも、しかも相当負けたのだけれど、前進していると信じて疑わなかった。正しい道を進んでいて、計画どおりなのだと。ひたすら打ち続けるだけだと、自らに言い聞かせていた。フラットで深いストローク。どんなショットが来るよりも速く動く。どの試合でも。いずれ、何か突破口が開けるだろう。

 そのような状態がいつまで続いたのか、正確にはわからない。ちゃんと調べれば、敗北した数はわかるだろうが、もう終わったことだと思っても、そんなことをしたい人はいるだろうか?永遠に続く気がしたというだけで充分だろう。どんなことをしても、何も変わらないようだった。それからある日、変化があった。とうとう私の脳は自分の体を理解し始めたのだ。勝利の間に起こったことではなかったし、たちまち変わったわけでもなかった。変化が起こったのは敗北のさなかだった。観客にとって、それはまたしても負け試合にしか見えなかっただろうが、何か重要なものが変わったのだ。気づくためにはテニスをきちんと知らなければならないような微妙な変化だった。

(p134)

 

「災難が実際に降りかかってくるまで、自分がどんな反応をするのか誰にもよくわからないものだ。」本当にそうなんだろうな、と思います。彼女の場合は体の成長なので、事態に備えることはできないし、ましてやこれが悪夢を引き起こすようなことになろうとは誰も予想できなかったでしょう。

 

練習用コートから半マイル(800メートル)ほどのところにある、朝食つきの宿のような家をすぐ予約してくれたのだ。時代を経た大きな家で、屋根窓や張り出し部があちこちにあった。広々とした美しい芝生があり、いくつもの大きな部屋には大きな窓があって、ゆったりしたフロントポーチが備わっていた。とにかくそこが大好きになった。その家は間違いなく、ウィンブルドンでのわたしの成功の一部、成功の秘訣の一部だった。おかげで心の準備がしっかりできた。わたしたちだけで3階部分を丸ごと使えた。持ち主は3人の子どもがいるすてきな夫婦だった。いちばん下の子は2歳。大きな試合を戦うときに2歳児がまわりにいるのはいいものだ。2歳の子どもは好奇心があるけれど、本当に何かにこだわったりしないし、無頓着さや何も気にしないから幸せという態度を見て、結局のところ、こんなことはみんなどうってことないのだと思い出させてくれるからだ。今いるチャンピョンたちも、10年後には別のチャンピョンたちに代わっているだろう。いつか消え去るのだから、ただ楽しめばいい。2歳児からそんなことを教わるはずだ。くつろいで楽な気分で試合できるようにさせてくれるものは、心の持ち方だ。用心はするけれど、慎重になりすぎない状態で試合に臨むプレーヤーは実に危険な相手となる。たとえ、たった17歳でも。

(p178)

 

「ただ楽しめばいい」と、17歳の時点でのシャラポワが考えたのか、それとも振り返ってこう

表現しているのかは分かりませんが、このあと彼女はウィンブルドンで優勝します。その成功には何が作用したのか?と思い返して、2歳の子どもとの触れ合いを挙げるのが興味深かったです。

 

最高のテニスをしたのは第3試合だった。少数の観客を前にしたセンターコートでの初めての試合で、対戦相手はダニエラ・ハンチュコバ。ハンチュコバはスロバキアの選手でトップテンにランキングされたこともあった。彼女はインディアンウェルズ・マスターズで優勝したことがあり、ウィンブルドンでは準々決勝まで進んだ経験がる。グラスコートではとても上手なプレーヤーだった。こんなとき、最高のテニスができる。優れた相手のおかげで、自分でも思いがけないすばらしいショットができるようになるのだ。

 

 この試合への意欲をかきたてたものは何だったのだろう? コイントスのために顔を合わせたとき、わたしは気づいた。嘘でしょ! ウェアが同じじゃないの! ぞっとしたことに、ハンチュコバとわたしは同じナイキのウェアを着ていたのだ。彼女のせいじゃなかったけれど、わたしはそれがひどく気に入らず、こんなことが二度と起こらないようにしようと思った。どうやって? 契約更新のサインをしたとき、ナイキはある条項をそこに含めたのだ。出場するどの試合でも、わたしが自分だけのウェアを身につけること、という条項をーーナイキがスポンサーになっていても、ほかの女子プレーヤーはわたしと同じウェアを着られないということだ。とにかく、その夜はいらだちを感じたおかげで、試合にうんと役に立つ鋭さが加わった。

 その日、わたしがハンチュコバに対してあげたポイント、無限に続く気がしたラリーーーそういうものは今でも感じられる。ラケットのガットに当たったボールの重み、ラインをわずかにとらえたコート対角線へのウィナー〔訳注・ラリーで相手のラケットがボールに触れずに決まったポイントとなるショット。〕ここへ来るまでは長い道のりだった。スペインで幕を開け、ドイツとイタリアでいくつもの大会に出て、全仏オープンでは過去最高のところまで勝ち進み、バーミンガムで優勝した。練習と試合に時間をそそぎ込み、今やすべてのものがピタッとはまっているところだった。人生でもっとも完璧なテニスみたいに感じた。エラーはほとんどなく、あらゆるショットを打ち、ボールはまさに狙い通りの場所に着地した。これが本物だと思えたのは、単にポイントやサーブの点だけではなかった。自分の心の状態、集中力の強さだ。わたしはうまくいく方法を見つけたのだった。覚えておいてほしいが、集中力とはただ何かに注意を向けることではなく、物事をシャットアウトすることでもある。ほかの世界を取り除いてしまうことだ。どんどん取り去っていき、最後にはこのコートと、向こう側に立って操り人形のようにあちこちへ動こうとしている女子プレーヤーだけになる。めったに起きないことだし、そうなればいいと願うものだが、そんな瞬間が訪れたとき、プレーヤーは非常に感覚が鋭くなるとともに鈍くもなる。

(p187)

 

対戦相手とウェアがかぶるというのが、ちょっとウケます。

(実際には居心地の悪さ満点だろうなと思いますが)

集中力についての助言も、覚えておこうと思いました。

 

  わたしは張り切って興奮し、始める準備ができていた。昔からのあの思いが湧き上がっているのを感じた。みんなを負かしてやりたいという、尽きることのない欲求を。

   待とうと思ってロッカールームへ戻った。セリーナがいた。姿が見えないうちから、彼女が立てる物音が聞こえた。わたしと同じように彼女も自分なりの儀式をしていたのだ。わたしと同様、セリーナもひとりで座っていた。まるでわたしたちは不毛の星にいる、たったふたりの人間みたいな気がした。ふたりの間は5フィート(5メートル弱)ほどしか離れていないのに、宇宙にいるのは自分ひとりといった態度でそれぞれ行動している。セリーナとわたしは友達になれただろう。同じものを愛し、同じ情熱を持っている。わたしたちと同じもの――この嵐の真っただなかにいるのはどんな感じかということ、自分を駆り立てる恐怖や怒り、勝利や敗北がどういうものか――を知っている人は世界に数人しかいない。でも、わたしたちは友達ではないのだ。絶対に。友人になれない理由は、ある意味でお互いを追いつめるせいではないかと思う。もしかしたら、このほうが友達になるよりいいかもしれない。おかげで適切な激情に火がつくのかもしれないのだ。相手への激しい敵意を持つことができて初めて、やっつけてやるという強さが生まれるのだろう。けれども、なんとも言えない。いつか、こういうことがすべて過去の話になったら、わたしたちは友達になれるのかもしれない。なれないかもしれないけれど。

(p205)

 

勝戦の前にはこんなことを考えるものなんですね。すごく近しい存在なのに、打ち解けられなさがあるというのが不思議な世界です。

 

わたしにはスピードがなかった。動きの速い人間ではなかったし、走るのも速くなかった。ドロップ・ショットに追いつくために最初の1歩をすばやく踏み出すことができなかったし、横への動きは機敏じゃなかった。ネット際へ寄るのもそう速くはない。まるで何かに邪魔されて動けないかのようだった。それに動き出したときでさえ、1歩速かったり、2歩遅かったりした。

 こういう弱点を知って受け入れることが、成長のもっとも重要な部分となった。自分の弱みのほうへ近づけず、強みのほうへ持っていくようにと、試合のかじ取りができるようになったのだ。何年も経ったあと、それまでの指導や戦略が完全に意味を成すものとなった。よい作戦があることが、長所に影響を与えた。2004年のシーズン中、わたしはすべてをうまくやりこなせるようになり始めた。特にそのころにできるようになった理由はよくわからない。もしかしたら、単に心の働きによるのかも。わからない、わからないと言っているうち、ある日ついにわかるようになるということだ。試合に出るたびにわたしが勝ち始めたのはそのころだった。特別な満足感を覚えたものだが、セリーナとビーナスのウィリアムズ姉妹のふたりともに勝ったのも同じ年だったのだ。

 ロサンゼルスのステイプルズ・センターでのWTAツアー選手権の決勝でセリーナと対戦した。シーズンの終わりだった。わたしたちはブルーコートで戦った。わたしはリラックスし始めていた。だから、あれほどうまくいったのかもしれない。この試合はテニス人生で最高のものだった。第1セットは失ったが、試合には勝った。その試合のことを覚えている人は多くないだろうーー放映されたのは真夜中だし、西海岸での試合だったから――けれども、わたしは決して忘れない。テニスをやめるとき、持ち続けるものは何だろう? トロフィー? それともお金? 完璧な試合をしたときの思い出に違いない。何もかもがうまくいったときのこと。サーブがことごとく狙いどおりのところに決まって、どのボールも絶好調だったとき。今ですら、夜に目を閉じて眠りが訪れるのを待つときに感じるのはあの試合のことだ。どんぴしゃりのところに打ったとき、体を駆け抜けた快感。いつ終わるともわからないラリーの応酬による幸せな疲労感。最後の何度かのショットと、すべてを終わらせる勝者。たくわえていた力を肉体的にも精神的にもコートで使い果たし、心は空っぽになって、体は疲れ切っていながら満足していることを知りつつ、ロッカールームへ戻ったときの気持ち。

(p234)

 

彼女が眠りにつく前に思い出す試合、とても気分が良さそうです。

 

さまざまなトレーナーやフィジカルコーチとリハビリしたけれど、依然としてひどい痛みは続き、進歩は遅かった。手術を受けたのは2008年10月だった。わたしはクリスマスまでにはコートに戻り、ボールを打っていた(へたくそにだけれど)。けれども、あらゆるものが違って感じられた。この場合、違う。というのはよくないことを指した。痛かったし、不快だった。わたしの強さは失われていた。柔軟性も。それに可動域が変わってしまった。サーブを打とうとすると、充分に腕を振り上げられず、パワーを生み出せなかった。いずれはまたボールを打つことを覚え、この苦痛や落ち込みからも抜け出せるかもしれないが、前とは違うプレーヤーになっているだろう。17歳のときに打ったようなサーブは決して打てない。あんなふうに着実で自由に、余裕たっぷりには打てないだろう。あれほどパワフルにも正確にも打てない。動きは前よりも小さくしなければならないのだ。それを頭ではわかっていたけれど、まだきちんと理解していなかった。コートの上では落ち着かなかったし、自分の体になじんでもいなかった。2008年の冬、こういうみじめな朝を過ごしていた間じゅう、わたしは何をしていただろうか?もう一度、テニスをする方法を学んでいたのだ。それまでよりも抜け目のなさや戦略に頼らねばならない。サーブを打つことより、サーブを返すことに頼らなければならないのだ。ある点では、結果的に前よりも優れたプレーヤーになれるだろう。別の点では、前よりも悪くなる。どっちにしても、新しいやり方で勝つことを覚えなければならなかった。

 父は練習試合をいくつか手配した。試合はうまくいかなかった。わたしは格下のプレーヤーたちに負けた。そのせいでパニックに陥りそうなほど不機嫌になった。何をやっても楽しくなかった。いつも肩や未来や試合のことが頭から離れなくなってしまった。ねえ、肩のことは話したっけ?  というふうに。肩のせいで、人生のほかの部分を楽しめなかった。友達や家族、食事、買い物、晴れた日を。

 両親はわたしを心配していた。マックスもだ。テニスについて心配していたのではなかった――いずれは自分で方法を見つけて復活できると思っていた、と彼らは言う――けれども、わたしの精神、心の状態を案じていたのだ。人生で関わった人々から受けた多くの支援や愛にもかかわらず、わたしはひどく孤独で自分を小さく感じていた。みんなに何を言われても、気分はよくならなかった。だから子どものころの習慣だった、日記をつけることをまた始めようと決めた。悲しい思いを紙に書き記そうと。日が経つにつれて日記は親友となった。信頼できる唯一の友、気持ちを分かち合えるただひとりの友人となったのだ。

 わたしの回復にとって、これはとても重要な部分だろう。書くという、体を使った作業によって脳が再教育されると信じるようになった。

(p256)

 

肩の手術後の苦しみから抜け出すために日記を書いたというところに、なるほどと思いました。

 

 この本の執筆のためにスベン(・グレネヴェルド)と腰を下ろしていたとき、どうしてコーチを引き受けることにしたのかとわたしは尋ねた。彼は笑って言った。「そうだな、マリア。実は不安があったんだ。こんな自問自答をしていた。『そう遠くない将来に30歳になるプレーヤーがここにいる。平均的なテニス・プレーヤーは、ことに女子の場合、20代の後半で引退する。このプレーヤーはほぼすべてを成し遂げてきた。グランドスラムの全大会で優勝し、世界ランキングのトップにもいた。だったら、彼女がまだテニスをするのは何のためだ?』わたしはその問いをズバリときみに投げたね。自分のレガシーを守りたいとか、あと一度グランドスラムで優勝したいとか言うんじゃないかと、わたしは恐れていた。たいていのプレーヤーがそんなふうだからだ。だが、きみの返事は違った。覚えているかい? わたしはこう尋ねた。『今、きみはなんのためにプレーしているんだね?』と。きみは答えた。『みんなを倒したいからよ』その瞬間、わたしは自分に言ったんだ。『よし、やるぞ!』とね」

 わたしは人生で経験したことがないほどきついトレーニングをスベンとやった。少し年をとってきたら、そうでなければならない。半分でも自然に見えるようにするためには、それまでの2倍やらなければならないのだ。同じ結果を得るためには、かつての2倍の努力が必要になる。要するに、練習がすべてなのだ。よい練習ができなければ、よい試合ができない。1日練習をやめれば、次のトーナメントでは1日早く試合の場から去ることになる。つまり、あらゆるものの代償は自分が払うのだ。自分のために休みを1日とれば、コートに残る日を1日失う。

(p297)

 

「あらゆるものの代償は自分が払うのだ。」

これに近いことを、よく考えます。つい食べ過ぎてしまった時とか。

(次元が違いすぎかも知れませんが)

 

  わたしはニューヨークへ飛んだ。ドーピング検査の結果が公開されたとき、わたしはニューヨークにいた。9カ月間、ひとつのインタビューも受けていなかった。一切のコメントを発表していないし、マスコミの前でしゃべってもいなかったのだ。この件に関しては、あのときの記者会見がわたしの最後の言葉だった。わたしは法的な言葉が最終的に文字として現れるまで、コメントするのを待ちたかったのだ。今や、そのときが来た。わたしは『トゥデイ』〔訳注・NBCで放送されている朝のニュース番組〕のショーとインタビュー番組の『チャーリー・ローズ』に出演した。そして『ニューヨーク・タイムズ』紙の大がかりなインタビューを受けた。たぶん、わたしはITFに間違いを認めさせたかったのだろう。けれどもそうはせずに言葉を濁し、口ごもっていた。でも、それでいい。経験から教えられた。この世界には完璧な正義などないことを。人の口に戸は立てられないし、自分をこのように思ってほしいと相手をコントロールすることもできない。不運に対して備えることもできない。できるのは必死に頑張り、ベストを尽くし、真実を語ることだけだ。結局、大事なのは努力なのだ。ほかのことは自分の力ではどうにもならない。

(p321)

 

「相手をコントロールすることもできない」、この謙虚な姿勢が凄くいいなと思いました。

壁にぶつかった時の考え方など見習いたいところも多く、面白かったです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

 

小渕千絵『APD「音は聞こえているのに聞きとれない」人たち』

おはようございます、ゆまコロです。

 

小渕千絵『APD「音は聞こえているのに聞きとれない」人たち 聴覚情報処理障害(APD)とうまくつきあう方法』を読みました。

 

 APD=聴覚情報処理障害(Auditory Processing Disorder)とは、

 

聴力に問題はなく音は聞こえているけれど、人の話し声(音声)を情報として認知するのが困難な状態、つまり、耳から入ってきた音の情報を脳で処理してことばとして理解する際に、なんらかの障害が生じる状態。

 

のことらしいです。

 

海外のデータには、夫婦げんかのタネになりやすい「妻の話を聞かない夫」の約4割は、「聞き取り困難」であるという報告もあるそうです。(p2)

私は時々聞き間違いがあり、TVは字幕を出すと安心することもあるので、少し気になって手に取ってみました。

 

聞き取り困難である要因には、様々なタイプがあり、その違いによって症状や対処法が異なるそうです。

 

【大人のAPDの4タイプ】

  1. 脳損傷タイプ(脳梗塞脳出血の影響で、耳から脳に伝わる片側の中枢聴覚系(耳から脳までの経路)の途中でダメージが生じている。)   →検査で症状を明らかにし、周りの環境調整を行うなどの対処が必要。
  2. 発達障害タイプ(ASD自閉症スペクトラム障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、LD(学習障害)などを原因とする。最も多いが、見極めが難しい。)   →自分が弱いのは注意力なのか記憶力なのかというように、自分の特性をはっきりとさせ、対処を考えていくことが大事。
  3. 認知的な偏り(不注意・記憶力が弱い)タイプ(相手の話に注意を傾けて集中する、あるいは話の内容を理解しながら記憶を更新していくことが苦手なタイプ。著者はタイプ2に分類される人も、こちらに含めて対処した方が良いのではないかという意見を展開している。)   →どちらの認知機能がより弱いのかを検査を使って明確にし、注意力が弱ければ、自分なりに注意喚起する方法を見つけたり、まわりの理解を得て情報を得やすいようにする方法を探す。記憶力が弱ければ、チャンク化(バラバラな情報を自分で都合のいいようにグループにまとめる作業のこと)や、イメージ化(文字情報を絵や映像で覚えること)などの記憶スキルを身につけることが一手。
  4. 心理的な問題タイプ(ストレスや心理的な問題が原因)   →専門的なカウンセリングが必要なこともあるが、ストレスの原因を見つけ、それを取り除くことが第一。少しでも困りごとを回避しつつ、APDと上手につきあいながら、毎日を前向きに明るく過ごす。

 

また、本書で興味深いと感じたのは以下の内容でした。

 

カクテルパーティー効果

 とくに聴覚に問題がなくても、ザワザワ、ガヤガヤしているパーティー会場などに入ると、だれが何をしゃべっているのか、すぐには判断がつきにくいものです。

 ところが、話したい相手や聞きたい会話に注意を向けると、まるで周囲の騒音が消えたかのように、ことばがわかるようになります。

 この現象を説明するおもしろい実験結果があります。雑音下でことばを聞いたとき、大脳の聴覚野がどのような反応を示すのかを調べたものです。

 その結果、一時聴覚野では音声に対する反応が下がることがわかりました。これは、音声に雑音が重なると音声そのものは小さく聞こえますが、音が小さいということはそれだけ音の刺激が小さく、その結果、脳の反応も下がるためです。その先の二次聴覚野以降でも、あえて音声を聞きとろうという意識をしなければ、反応は小さいままです。

 ところが、「聞きとろう」と意識をして音声に注意を向けたとたんに、小さい音に対する二次聴覚野以降の反応は大きくなります。つまり、物理的には雑音に混じって小さいはずの音に注意を向けると、脳は注意を向けた音を処理する神経回路を増強し、それを大きく感じられるように働くのです。

 要するに、脳は、一度にいろいろな音がたくさん入ってくると、そこから選んで一部だけを大きくして聞きとる能力があるということです。

 このことから、脳は膨大な情報を処理するために活動を偏重させ、選択して処理をおこなう効率的な働き方をしていることがわかります。

 こうした脳の機能を「カクテルパーティー効果」といい、両耳聴機能も関与するとされています。

(p73)

 

意識していなくても、耳はうまく機能してくれているんだなと感心しました。

 

睡眠障害の人にも、聞きとり困難の症状が出ることがあります。

 寝不足になると日中のパフォーマンス能力が落ちることは、だれしも経験上ご存じだと思います。これは、睡眠が不足すると昼間でも眠くなって覚醒度が下がるためです。

 覚醒度が低いと一生懸命注意しようとしても、意識そのものが低く全体の注意量が少なくなって、不注意傾向になってしまいます。覚醒の中枢は脳幹の網様体賦活系(もうようたいふかつけい)と呼ばれる領域ですが、ここは注意の中枢のひとつでもあります。

 そのため、覚醒レベルが下がると、注意力も影響を受けて下がりやすくなってしまうのかもしれません。

 仕事にしろ勉強にしろ、何か作業をするときは、目的に対して注意を向け集中することが必要ですが、睡眠不足で覚醒度が下がってしまうと集中力がつづかず、作業能力が下がってしまいます。

 これは、話を聞くときも同じです。睡眠不足のときは、相手の話を聞いている途中で意識が一瞬ぼんやりして、ことばを聞き漏らしたり、聞き漏らしたことばを会話の流れから推測したりすることがむずかしくなり、聞きとりに影響をおよぼします。(中略)

 なかなか寝つけないとか、すぐに目が覚めるとか、睡眠障害のある人は、APDの前にまず睡眠に対する治療を受けることをおすすめします。睡眠状態が改善すれば、聞きとり能力も改善するといえます。

(p155)

 

 私が視察に訪れたドイツのミュンヘンにあるインクルーシブ教育(障害のある子どもと障害のない子どもとがともに教育を受けること)を実践している学校では、すでに「聾学校という聴覚障害の子どものための学校という形態ではない」と話されていました。

 APDと診断された生徒、健聴の生徒は同じ教室で学んでおり、健聴児以外には、それぞれに必要な補聴機器を使っているのです。聴覚障害生徒は、補聴器や人工内耳、APD生徒は机の手元の装置にヘッドホンを取りつけて聞いていました。

 先生は送信マイクを使い、生徒たちは発言する際には手元のマイクで話します。健聴児はもちろん肉声を聞き、聴覚障害生徒やAPD生徒は補聴機器あるいはヘッドホンを通して、しっかりと先生や同級生の声を聞くことができるのです。

 学校には心理の専門職やソーシャルワーカーが常駐していて、APD生徒を含めた生徒たちの日常的な困りごとや、心理的な支援をおこなっており、そうした配慮の効果は明らかだということでした。

 生徒たちはその後、職業専門学校に進み、職業訓練を受け、さらには専門的な支援も受けます。このような小児期からのていねいな支援によって、社会の中で過ごしていく力を身につけることができるのです。

 このため、社会に出ても困りごとを感じる人が少ないために、いわゆる「大人のAPD」をいう成人期に自覚する例は少ないのではないかと思います。

(p174)

 

このミュンヘンの学校の実践を取り入れるとしたら、日本にはどんな課題があるだろうかと考えました。

 

APDは聴力には異常がないことが大前提なので、聞きとりにくさを感じたら、まずは聴力検査をして、ほかの聴覚障害である可能性をできる限り取り除いておくことが第一と本書では述べられています。

 

その他、著者が聴覚トレーニングとして挙げている方法として、次のような事があります。

 

・ラジオのトークに耳を傾ける。(電波にのって聞こえてくる、ノイジーな声を聞いて理解しようとすることで、聞きとる力を鍛えることができる。)

・朗読CDやオーディオブックの内容をイメージしながら聞きとる。

・読んだ記事や聞いた話の要約をしたり、感想や考えをまとめ、語彙力を増やす。(話を理解する力をつけると、聞きながら推測する力も高くなる。また、子どものAPDには読書が一番だが、読みたがらない場合は語彙力ドリルや、「みみなぞ」(謎解きCD)などの教材を活用する。)

 

これらも、取り入れやすそうだと思いました。

 

私が聞き間違いが多くなるのは、眠気を感じているときであるようだったので、意識して生活習慣を整えたいと思いました。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

新海誠『小説 天気の子』

おはようございます、ゆまコロです。

 

新海誠『小説 天気の子』を読みました。

 

ーそうか。皆が取材でなんでも話してくれるのは、だからだ。女子高生も大学の研究者もいつかの占い師も、相手が夏美さんだからこそあんなふうに喋ったのだ。誰のことも否定せず、相手によって態度も変えず、きらきらした好奇心で相づちをうってくれるこの人だから、荒唐無稽なことでも皆すんなりと話せてしまうのだ。

 そうか、だからだ。僕はまた理解する。どんなに叱られてもちっとも辛くない理由。僕が変化したわけじゃない。相手がこの人たちだからだ。須賀さんも夏美さんも、僕が家出少年であろうと関係ないのだ。当たり前の従業員として、当たり前に頼ってくれるのだ。僕を叱りながら、お前はもうちょっとマシになれる、彼らはそう言ってくれているのだ。その瞬間だけがチクリと痛い注射のように、それが僕の体を強くしているのだ。

(p63)

 

主人公が仕事を見つけ、動き出すこの辺りの展開が好きです。

 

   少年鑑別所から解放され、ようやく島に戻る頃には、家出をしてから三カ月が過ぎていた。気づけば夏の盛りは過ぎ、秋の気配が漂い始める季節だった。すごすごと戻ってきた僕を、両親も学校も不器用にー それでも温かく迎え入れてくれた。あれほど窮屈だった父も学校も、戻ってみればそこは当たり前の生活の場所だった。僕自身が不完全であるのと同じように、大人たちもまた等しく不完全なのだ。皆がその不完全さを抱えたまま、ごつごつと時にぶつかりながら生きているのだ。僕は、気づけばそれをすんなりと受け入れていた。そのようにして、僕は島での高校生活を再開した。

(p274)

 

みな不完全である、という気づきを得るためには、自分のことが嫌いになったり、自分のことを知ろうとしたりして、その先で他者と触れ合ったり衝突したりといったことが必要不可欠なんだろうなと思います。

ただ、どうして主人公は生まれた土地を離れたのか、直接の理由がよく分からなくて少しもやもやしました。

(映画はまだ未視聴なので、そちらの方で明らかになっていたらすみません。)

 

「だって、あの時俺たちはー」

「お前たちが原因でこうなった?自分たちが世界のかたちを変えちまったぁ?」

 心底呆れたという様子でそう言って、ようやくディスプレイから顔を上げて中年は僕を見る。オシャレ風眼鏡を頭に上げて(でもきっと老眼鏡だ)、軽薄そうな細い目をさらに細める。

「んなわけねえだろ、バーカ。自惚れるのも大概にしろよ」

 須賀さんだ。相変わらずのタイトなワイシャツ姿で、ダルそうな口調で僕をなじる。

「妄想なんかしてねえで、現実を見ろよ現実を。いいか、若い奴は勘違いしてるけど、自分の内側なんかだらだら眺めてもそこにはなんにもねえの。大事なことはぜんぶ外側にあるの。自分を見ねえで人を見ろよ。どんだけ自分が特別だと思ってんだよ」

(p284)

 

最後の、何気なく放たれた須賀さんのセリフがこの本で一番好きです。

 

 先日、僕がこの解説に何を書けばいいか迷っているとこぼすと監督からこんな返事がきた。「僕としては、洋次郎さんがなぜ『天気の子』にこれほどの力を注いでくださったのか、その不思議を知りたいです。」と。

 なぜか考えてみる。その結論は二秒で出た。それは新海誠の作品だったからだ。そして新海さんが僕のことを信じてくれたから。これに尽きる。僕は平気で人を選ぶ。みんなに優しくなんてできないし、身体は一つしかない。限られた中で自分の持っている力を発揮するしかない。もちろんそんな僕を嫌いな人もたくさんいるだろうし構わない。でも信頼できる人と出会い、何か一緒に新しいモノを作る機会を得られるならそんな嬉しいことはない。

 何かを作る時、自分の愛する作品に誰かの意見や想いを反映させるというのは意外に、容易ではない。分野は違っても「モノ創り」をする人はきっと理解できるだろう。自分だけが知っているこの物語、自分こそがこの作品の正解を知っている。そう信じ創作をする人もたくさんいるだろう。でも監督は自分が信じた人の言葉を信じる。まっすぐ信じる。そうすると、僕は自分の持っているすべてを渡さないと気が済まない衝動に駆られるのだ(すべてを出せたのか自分では分からない)。

(p304)野田洋次郎(RADWIMPS)による解説より。

 

特にクリエイティブな仕事をしていない自分にも、自分の作品に違う人の意見を反映させることの難しさ、というのが、リアルだと思いました。 

 

欲を言えば、もうちょっと帆高の住んでいる島の詳しい描写が欲しかったです。

(「君の名は。」の自然の風景が良かったなと思っていたので。)

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。

 

 

ポール・オースター『冬の日誌』

おはようございます、ゆまコロです。

 

ポール・オースター柴田元幸(訳)『冬の日誌』を読みました。

 

 より繊細な、より美しく、最終的にはより充実感のあるゲーム― もっとも暴力的でないスポーツたる野球の技能を君は着々と身につけていき、六つか七つのころから没頭するようになる。キャッチして投げる、ゴロをさばく、何アウトかランナーが何人どこに出ているかに応じて試合中それぞれの瞬間どこに構えるべきかを学ぶ。ボールが自分の方に飛んできたらどうすべきか前もって知っておく― バックホーム、二塁に投げる、ダブルプレーを狙う、あるいは― 君はショートなので― シングルヒットが出たときにレフトへ走っていってからぐるっと回って長い中継スローをしかるべき位置に投げる。野球が嫌いな人間にはわかるまいが、退屈な時間は一瞬たりともない。つねに先を予期し、つねに万全の態勢で待ち、頭の中ではいろんな可能性がぐるぐる回っていて、それから突然動きが生じ、ボールがぐんぐん君めがけて飛んできて、為すべきことをきっちりやる切迫した必要が生じる。それを為すにはすばやい反射神経が必要だ。君の左か右かに転がってきたゴロをすくい上げ、一塁めがけて全力で正確に投げる、そのえも言われぬ快感。だが何より快いのは、ボールを打つ快感だ。構えに入り、ピッチャーが振りかぶるのを見守り、来たボールをしっかり捉えて打つ。ボールがバットの芯と出会うのを感じ、その音をまさに耳にしながらスイングでフォローし、ボールが外野深くに飛んでいくのを見る。何ものにも変えられない感触、その瞬間の高揚に迫るものなどありはしない。時とともに君はますます上達したから、そういう瞬間は数多く訪れたし、君はまさにそれらのために生き、この無意味な子供の遊びに心底没頭した。あのころはそれこそが君の幸福の頂点だったのであり、君の体が何よりも上手に為したものだった。

(p33)

 

オースターの書く野球についての文章は楽しいものが多いですが、これはその中でもかなり幸せな感情が込められているように感じました。

この後出てくる、オースターのお母さんがホームランを打つ場面もスカッとします。

 

この犬はもう二年かそれ以上、君の生活の一部でありつづけていて、君は彼のことが大好きだ。冒険を好み、車を追いかけることに異様な情熱を燃やす元気一杯の若いビーグル犬。すでに一度車に轢かれていて、そのとき左の後ろ足をひどく傷めたのでもうこの脚は使えなくなっており、いまや三本脚犬である。奇妙な、使えぬ脚をぶらぶらさせている、海賊みたいな空威張り犬だが、障害にはちゃんと適応していて、三本しかなくとも近所のどの四本脚犬より速く走れる。かくして君は二階の部屋でベッドに入っていて、不具の飼い犬は裏庭のケーブルにしっかり繋がれているものと信じている。と、突然大きな音がいくつも続けざまに生じて静寂が破られる。君の家の前でタイヤがキキーッと鳴る音がして、すぐそのあとに甲高い苦痛の吠え声が生じる。それは苦しんでいる犬の吠え声であり、その声からしてそれが君の犬であることを君はただちに悟る。君がベッドから跳ね起きて外に飛び出すと、そこに悪ガキ(ブラット)、怪物(モンスター)がいて、「一緒に遊びたかった」から犬のリードを外したのだと君に告白する。そしてそこには車を運転していた男もいて、ひどく動揺し狼狽した様子で、周りに集まった人々に向かって、仕方なかったんです、男の子と犬が道の真ん中に飛び出してきて、子供か犬かどちらかにぶつかるしかなかったんでハンドルを切って犬にぶつかったんですと言っている。そしてそこには君の犬がいる。君のおおむね白い犬が、黒い道路の真ん中で死んで横たわっている。彼を抱き上げて家の中に運び入れながら君は心の中で言っている。違う、あの人は間違ってる、犬じゃなくて子供にぶつかるべきだったんだ、あいつをぶっ殺すべきだったんだ。その子が君の犬に対して為した仕打ちに心底憤る君は、誰かが死んだらいいのにと生まれて初めて自分が願ったことに思いあたる余裕もない。

(p37)

 

本書が始まってしばらく、オースターが子供時代に経験した怪我のお話が続き、痛々しくて挫折しそうになりましたが、その怪我の数々も、この体験に比べればましに思えてきます。

 

 いつも迷子になって、いつも間違った方向に進んで、いつもぐるぐる同じところを回っている。君は生涯、空間における自分の位置を見定める能力を欠いてきた。どこよりも把握しやすい都市であるはずの、そして大人になってからの大半を過ごしてきたニューヨークにいても、しじゅう面倒な事態に君は陥る。ブルックリンからマンハッタンへ地下鉄で出かけるたび(正しい列車に乗ったのであってブルックリンのさらに奥へ入り込んではいないことが前提だが)、階段を上がって通りに出た時点で君はかならず立ちどまり、方向を確認する。それでもなお、南へ行くはずが北へ行ってしまい、西へ行くはずが東へ行ってしまう。かならず間違うのだからと、自分の一枚上を行くつもりで、やるつもりだったことの反対をわざとやって右の代わりに左へ行き、左の代わりに右へ行ってみても、やっぱり間違った方向へ行ってしまう。どう調整しても駄目なのだ。森を一人でさまようなんて論外である。何分も経たぬうちにすっかり迷子になってしまう。屋内であっても、知らない建物へ入るたびに間違った廊下を歩き、間違ったエレベーターに乗ってしまう。レストランのような、もっと小さい閉ざされた空間でも、食事するエリアが複数あると、トイレへ行って戻ってくるたびに間違った角を曲がってしまい、自分のテーブルを探して何分も費やす破目になってしまう。決して狂わぬ内なる羅針盤を持つ君の妻をはじめ、ほかの人たちはだいたい、どこへ行っても何も苦労しないように見える。自分がいまどこにいるか、いままでどこにいたか、これからどこへ行くのか、みんなきちんとわかっている。だが君は何もわかっていない。君は永久に瞬間の中に、一瞬一瞬君を呑み込む空(くう)の中に埋もれていて、真北がどっちなのかわかったためしがない。君にとって東西南北の方位点は存在しない。いままで一度も存在したことなどない。これまでのところは小さな欠点と片付けてこられたし、取り立てて劇的な結果が生じてもいないが、いつかある日、うっかり崖っぷちの先へ歩いていってしまわないという保証はどこにもない。

(p53)

 

レストランでトイレに行って戻ってくると、自分の席がどこだったか分からなくなること、結構あります。私もかなりの方向音痴なので、この文章はかなり共感できました。

 

 二イニング目、打順が回ってきた彼女の打ったボールがレフトのはるか頭上を越えたとき、君はもう嬉しいを通り越して、ただただ唖然としていた。デン・マザーのユニフォームを着た母親がベースを一周し、ホームに帰ってくる姿がいまも目に浮かぶ。母は息を切らして、ニコニコ笑い、少年たちの喝采を一身に浴びている。君の少年時代の母をめぐって持ちつづけているすべての記憶の中で、いまも一番頻繁によみがえってくるのがこの瞬間だ。

 

 彼女はたぶん美人では、古典的な意味での美人ではなかった。けれど、部屋に入ってくると男たちが思わず見とれるような魅力、華やかさは十分にあった。純粋な意味での端麗さ、実際に映画スターであるかどうかは別としてある種の女性が有している映画スター的端麗さはなくても、彼女はそれを、特に若い時期、二十代後半から四十代前半あたりまでは、華麗なオーラを発散させることで補っていた。身のこなし、姿勢、エレガンスの神秘的な組み合わせ、着ている人間の官能性をほのめかしはしても過度に強調はしない衣服、香水、化粧、アクセサリー、スタイリッシュにセットした髪、そして何よりもその目の悪戯っぽい表情で補っていた。率直そうで、と同時に慎ましげなその表情には自信というものがみなぎっていて、世界一の美女ではなくてもあたかもそうであるかのように彼女はふるまった。そういうことをやってのけられる女性は、男たちをふり向かせることができる。だからこそ君の父方の陰気な御婦人たちは、彼女が一族を離れたあと露骨に敵意を示したのだろう。もちろん当時は困難な年月だった。延びのびになっている、だがいずれ訪れるほかない君の父との破局が訪れるまでの年月、さよならダーリンの日々。

(p126)

 

夫との関係は最後まで良好ではなかったようですが、それでも、オースターの母親が素敵な女性であることがよく伝わってきます。

 

 一時的な片思いや戯れはいくつもあったが、若いころの大恋愛は二つだけ、十代なかばと十代後半の劇的事件。どちらも悲惨な結果に終わり、その後に最初の結婚が続いてこれまた大失敗に終わった。まず一九六二年、高一の英語の授業で一緒になった美しいイギリス人の女の子に恋をしたときから始まって、間違った人物を追いかける才能が君にはあるように思えたー 手に入らないものを欲しがる才能、君に愛を返せない、あるいは返そうとしない女の子に心を捧げる才能。時おり君の知性に興味を示したり、つかのま君の体に興味を示したりする子はいても、誰一人君の心には興味を示さなかった。この二人はどちらもひどく魅力的で、破滅的な、君の心をしかと捉えた、なかば狂った女の子だった。でも君は二人のことをほとんど何も理解していなかった。君は彼女たちを捏造したのだ。きみ自身の欲求の架空の化身として二人を利用し、彼女たちが抱えている問題や生い立ちを無視し、彼女たちが君の想像力の外においてどういう人間かも理解していなかった。それでもなお、彼女たちが君から離れていけばいくほど、君はますます彼女たちに焦がれた。

(p177)

 

「君(=オースター)の心には興味を示さなかった」というところに、彼がどんな女性を求めているのかが分かる気がします。

その後の、自分が女性に対してどう振る舞ったか?という考察も冷静です。

 

 一九八〇年にブルックリンに移って以来、君自身の都市において三十一年にわたり君はその往復をくり返してきた。週に平均二、三度は行き来するから、合計すれば数千回、地下鉄で行ったことも多いが車やタクシーでブルックリン橋を行って帰ってきたことも多い。千回、二千回、五千回、何度横断したかは知りようもないが、人生でこれほど何度も行った移動はほかにない。そして橋を渡るたびにかならず、その建築の美しさに君は感じ入ってきた。この橋をほかのどの橋とも違ったものにしている、古さと新しさの奇妙な、だが全体的に悦ばしい混合。中世風のゴシック様式アーチの分厚い石が、華奢な蜘蛛の巣のごとき鋼鉄ケーブルと不調和でありながら調和している。かつてはこの橋は北米で一番高い建造物だった。自爆殺人者たちがニューヨークに来る前、君はいつもブルックリンからマンハッタンへの横断を好んだ― 左側の港の自由の女神と、前にそびえるダウンタウンの摩天楼とが同時に見えるようになる地点に達するのを待つ楽しみ。突如視界に飛び込んでくる巨大な建物群の中にはむろんツインタワーが、美しくはないがだんだんと風景に溶け込んでいったタワーがあったのであり、マンハッタンへ近づいていくなかで高層建築の作るスカイラインにはいまも感嘆するものの、タワーがなくなった現在、横断するたびに死者のことを君は考えずにいられない。自宅最上階の娘の寝室の窓からツインタワーが燃えるのを見たこと、攻撃のあと三日間近所の街路に降った煙と灰のこと、金曜日にようやく風向きが変わるまで家の窓を閉めきるほかなかった耐えがたい強烈な悪臭のことを君は考えずにいられない。あれ以来九年半、依然として週に二、三度橋を渡りつづけているものの、その移動はもはや同じではない。死者はいまもそこにいて、タワーもまだそこにある。記憶の中で死者たちは息づき、空にぽっかり空いた穴としてタワーはいまもそこにあるのだ。

(p204)

 

1869年着工のこの橋を、私も数年前初めて見ました。

もし自分が戦争前に生まれこの橋を実際に見たとしたら、こんな立派な橋を作る国と戦争するのはかなり厳しいと思うだろうな、と考えるほど、重厚で美しい橋でした。

また911の際の描写は、彼の著書『ブルックリン・フォリーズ』の続きみたいで不思議な感じでした。

 

君はドイツにいて、ハンブルグで週末を過ごしていて、日曜の朝、友人で君の本のドイツ語訳を出している出版社の社長でもあるミヒャエル・ナウマンから、ベルゲン=ベルゼンに― というよりかつてベルゲン=ベルゼンの収容所があったところに― 行かないかと誘われた。尻込みする気持ちもあったが、行きたいと君は思った。そしてどんより曇ったその日曜の朝、ほとんど車のいないアウトバーンを走ったときのことを君は覚えている。何マイルも広がる平たい土地に灰白色空が低く垂れるなか、道端の木に激突した車と、草の上に横たわった運転手の死体を君は見た。体からはいっさいの力が抜け、ひどくねじれていて、男が死んでいることは一目瞭然だった。そしてミヒャエルの車に乗った君は、アンネ・フランクとその姉マルゴットとのことを考えた。二人ともベルゲン=ベルゼンで、ほか数万の人々とともに― チフスや飢えゆえに、あるいはわけもなく殴られ殺されて世を去った何万もの人々とともに― 死んでいった。助手席に座っていると、いままでに見た強制収容所の映像やニュース映画が頭の中を流れていき、ミヒャエルとともに目的地に近づくにつれて、君はだんだん不安になって、内にこもっていった。収容所自体は何も残っていなかった。建物は取り壊され、バラックも解体され撤去されて、鉄条網の柵も消え、いまは小さな博物館があるだけだった。それはポスター大の白黒写真を並べてそれぞれに説明を添えてある平屋の建物で、気の滅入る場所、見るのも嫌な場所だったが、とにかくがらんとしてすべてが消毒済みといった印象で、戦争中ここがどんな場所だったか実感するのは難しかった。死者の存在が君には感じとれなかったし、鉄条網で囲まれた悪夢の村に詰め込まれた数千万人が味わった恐怖も感じられなかった。ミヒャエルと一緒に博物館の中を歩きながら(記憶の中ではそこにいるのは君だけだ)、収容所がそのまま残されて残虐の館がいかなる姿だったか世界中が見られたらよかったのにと君は思った。それから君たちは外に出て、かつて収容所の建物があった地面に立ったが、いまそこは草の茂る野原になっていて、美しい、手入れの行き届いた芝が四方何百メートルも広がっていた。かつてバラックや施設があった位置を示す標識があちこちに据えられていなかったら、数十年前にここで何が起きていたか想像のしようもなかっただろう。やがて君たちは、地面が少し盛り上がった草地に出た。周りより十センチばかり高くなっている、六メートルx九メートル程度、広めの部屋といった感じの場所で、一方の隅に標識があり、ここにロシア人兵士五万人が眠ると書いてあった。君は五万人の墓の上に立っていたのだ。そんなにたくさんの死体がこの小さなスペースに収まるなんてありえないことに思えた。自分の下にあるそれらの死体たちを想像しよう、これ以上はないというくらい深かったにちがいない穴の中でぎっしり絡みあっている五万人の若者たちを思い描こうと努めると、かくも多くの死、そんな小さな一画の地面に押し込まれたかくも多くの死を想って眩暈がしてきて、その次の瞬間、叫び声が聞こえたのだ― 声たちのとてつもない大波が君の足元の地面から湧き上がってきて、死者たちの骨が苦悶に吠えるのを君は聞き、痛みに吠えるのを、轟々と耳をつんざく苦しみを滝のようにほとばしらせて吠えるのを君は聞いた。大地が悲鳴を上げていた。五秒か十秒それが聞こえて、それからまた静かになった。

(p205)

 

死者が呼びかけるのを著者が聞いたのはこれ一度だけ、とありますが、確かにこれは20年以上経っても思い出すたび戸惑いそうな体験だと思いました。

 

暑い日が続くので、涼しくなるかと思って手に取ったタイトルでしたが、それが何を意味するのかは、最後の文章の締めくくり方で明らかになります。

「君」と呼びかけられているけど、オースターの思い出を辿っているので、彼のアルバムにでも入り込んだかのような、いつもと違う体験でした。

 

カバーの絵のような写真も好きです。

 

最後まで読んで下さってありがとうございました。

斉藤洋『ルドルフとノラねこブッチー ルドルフとイッパイアッテナV』

おはようございます、ゆまコロです。

 

斉藤洋『ルドルフとノラねこブッチー ルドルフとイッパイアッテナV』を読みました。

 

「ねえ、イッパイアッテナ。イッパイアッテナがアメリカにいこうと思ったのは、また、日野さんの飼いねこになるためだったのかな。ぼくが岐阜に帰ったのは、リエちゃんのうちの飼いねこにもどるためだったけど。」

「ほんとにそうか、ルド。おまえ、飼いねこにもどるために、はるばる岐阜までいったのかよ。」

「もちろん、そうだよ。」

「そうかな。おれは、そんなんじゃないと思ってるぜ。」

「そんなんじゃないって、じゃあ、どんなんだよ。リエちゃんちの飼いねこにもどる以外、どんな目的があるんだ。」

「おまえはよ、ルド。リエちゃんの飼いねこにもどるとか、そういうんじゃなくて、ただ、リエちゃんにあって、なんていうか、ぎゅっとだっこしてもらうために帰ったんだろ。飼いねこにもどるとかもどらないとか、そのさきのことなんか、考えてなかったろうが。」

 そういわれて、ぼくはことばがなかった。

 たしかにぼくは、飼いねこにもどるとか、そういうことじゃなくて、ただ、リエちゃんにあいたくて、それで岐阜に帰ったのだ。

 ぼくがだまっていると、イッパイアッテナがぽつりといった。

「おれだって、そうだよ…。」

(p96)

 

飼い主と離れてしまったねこが、再び飼い主に会いたくて行動するとき、再会できた後どんな未来を望んでいるのか?なんて考えると、想像しただけで胸が切なくなってきます。

 

 

だれにもいってないけど、このごろまた、ぼくはリエちゃんのことを思い出す。

 ぼくがいなくなって、リエちゃんは一年待って、つぎのねこを飼った。その一年のあいだ、ぼくは岐阜に本気で帰ろうと思ったら、帰れていたと思う。なにがなんでも帰ろうというんじゃなかったから、帰らなかったのだ。だから、帰れなかったのじゃなくて、帰らなかったのだ。これは、とても重要なことだ。

 ぼくが帰らなかったのだから、リエちゃんがつぎのねこを飼ったことについては、ぼくに原因がある。だから、ぼくはリエちゃんにもんくをいうことはできない。だから、もんくをいったことはない。

 たとえば、ぼくがイッパイアッテナにリエちゃんのことでもんくをいったら、イッパイアッテナは、

「そりゃあ、おまえ。そんなこと、いえた義理じゃねえだろうが。」

というだろう。

 だけど、たぶんぼくは、心の奥底では、もんくをいいたいんじゃないだろうか。

「なんで、もうちょっと待ってなかったんだよ。」

って。

 それから浅草で偶然リエちゃんにあったとき、ぼくはリエちゃんだとわかったけど、リエちゃんはぼくがわからなかった。

 あのとき、リエちゃんといっしょにいた女の子がぼくを見て、

「あのねこ、リエちゃんちのルドににてるやん。」

といったとき、リエちゃんは、

「ちょっとにとるけど、うちのルドのほうが、もっとかわいいやん。」

といった。

 うちのルドというのは、ぼくがいなくなってからもらわれてきたぼくの弟だ。

 まさかぼくが東京にいるなんて、リエちゃんはそれこそ夢にも思ってないだろうから、ぼくがルドルフだということに気づかなくても無理はない。ぼくはよそのねこなのだ。よそのねこより、いま飼っているねこのほうがかわいくても、それはふつうのことだ。だから、これについても、ぼくはもんくをいうべきではない。

 だけど、やっぱりぼくはもんくをいいたいのだ。

「なんで、ぼくに気づかないんだよ。なんで、ぼくのほうがかわいくないんだよ。」

って。

 ぼくはイッパイアッテナやブッチーやデビルにはいってないし、これからもいうつもりはないけど、ほんとうは、心の奥底では、リエちゃんを許してないのだと思う。

 だから、ブッチーだって、もとの飼い主に対しては、複雑な思いがあるはずなのだ。

(p100)

 

ルドルフが本当は元の飼い主であるリエちゃんを許していない、という文章を上記で読んだ時、やっぱりなと思うと同時に、ほっとした気持ちにもなりました。

野良猫になるという道を自分で選んだとはいえ、彼を大事にしてくれたリエちゃんが違う猫と暮らしている現実を見たとき、どんなにショックだったかを考えると、表向きには彼女を恨んでいないと言っていたって、辛過ぎるだろうと思っていたからです。

なので、本音が聞こえて何だか安心しました。

 

…イッパイアッテナはブッチーを見てきいた。

「ところで、金物屋の苗字はなんていうんだ?」

「苗字って?」

ブッチーにききかえされ、イッパイアッテナがいった。

「だから、苗字だよ。このうちは日野っていうのが苗字で、デビルの飼い主は小川だ。そういうやつだよ。太郎とか一郎とか、そういう名まえのまえについているやつだ。」

「あ、それなら金物屋かな。」

「ばかいってるんじゃねえよ。そりゃあ、商売だろ。苗字だよ、苗字!池田とか川上とか、そういうやつ。」

「そんなのあったかなあ。」

「あったかなあじゃねえよ。人間には、だいたいあるんだよ。」

「だいたいあるなら、ないやつだっているだろ。うちのおやじにあったかなあ。だいたい、商店街じゃあ、金物屋でとおってたし。」

「なんだ、おまえ。飼い主の苗字も知らなかったのか。しょうがねえな。」

「しょうがねえなあっていわれても、しょうがない。」

ブッチーはそういってから、ぼくを見た。

「おまえのリエちゃんも、苗字、あったか?」

きゅうに話をふられ、ぼくは、

「えっ?」

といってから、考えた。

 リエちゃんの苗字……。

 ぼくはイッパイアッテナを見ていった。

「ぼくも、リエちゃんの苗字、知らないけど……。」

「えーっ!」

 イッパイアッテナは、のけぞりそうになっておどろいた。

「おまえも、飼い主の苗字、知らなかったのか?」

「だって、苗字なんかわからなくても、こまらなかったし。ねえ、ブッチー。」

ブッチーに同意をもとめると、ブッチーも賛成した。

「そうだよ。苗字なんて知らなくても、こまらなかった。そんなこというなら、タイガーはどうなんだよ。日野っていうのがタイガーの苗字か?日野タイガー?それじゃあ、トラックの名まえみたいだし、タイガー日野なら、プロレスラーみたいじゃねえか。」

「ばかいってるんじゃねえよ、ふたりとも。ねこはいいんだよ、苗字なんかなくたって。ねこの話じゃねえ。人間のことだ。まあ、わかんねえものはしょうがない。じゃあ、名まえは、金物屋の名まえはなんていうんだ?」

「名まえかあ……。」

とつぶやいたところをみると、ひょっとしてブッチーは飼い主の名まえも知らなかったのだろうか。

 ぼくはなんだか悪い予感がした。その予感は的中した。

(p123)

 

まあ、猫が飼い主の名まえも苗字も知らなくても、不思議はない気がします。しかしこの状態で、年賀状から元・飼い主の現在の所在地を探すというのがすごい。

 

 はがきの半分以上は写真で、その下に、こう書かれていた。

<三か月まえに、こちらに引っ越してきました。いまは妻の実家をてつだって、こんなことをしています。ごらんのとおり甲州名物のほうとう屋です。店の特徴を出すために、ふつうのほうとうのほか、お正月からは、中華ほうとうというものをメニューにのせます。これは、わたしが考えだしたものです。東京のわたしの店があった場所にできた中華料理屋に何度かおじゃまして、スープや餃子の作りかたを伝授してもらって作りました。ぜひ、おいでください。>

 そして、その下が住所と名まえだ。

 住所は、郵便番号400のあとが0017、甲府市屋形三丁目。そのあとにこまかい番地がある。ぼくはそれをぜんぶおぼえた。

 ぼくと最初にあったとき、イッパイアッテナは、

「三丁目なんて日本全国に数えきれねえほどあらあ。」

といったけど、たしかにそうだ。

 金物屋さんの苗字と名まえが会澤清一(カイナントカキヨイチ)ということと、奥さんが良枝(ヨイエダ)という名まえだということもわかった。住所の下に、ふたつならんで書かれていた。澤という字は読めなかったから形をおぼえた。

 文章はけっこう小さい字で書かれていて、長い。

 ぼくはこれも暗記した。もちろん、ブッチーに内容を教えた。

(p194)

 

どうして会澤さんのお家はこんなにしっかり設定されているのか謎ですが。

それよりも、人の家のこたつの上にある年賀状ファイルを、ちょっと見てもいいかとそこの家の猫に聞くルドルフが可愛い。

文面を覚え、なおかつ読めない字の形を覚えるというのがすごい。読み間違いも可愛い。

大学とか図書館とかの近くを通るたびに気にしちゃって、ほんとに勉強好きなんだね、と、ほほえましくなりました。

この少し前に、ルドルフが『ポケット版ことわざ辞典』を拾って、口で運んできたというシーンも、想像すると身もだえします。「おまえポケットなんてあるの?(笑)」とブッチーにからかわれるのもかわいい。

 

この後、電車に乗って(!)甲府まで行くのに、人が多いから乗り換えは新宿ではなく御茶ノ水がおすすめ、というイッパイアッテナのプレゼンがちょっと面白いです。

 

杉浦範茂さんの描いた前述の年賀状のイラストと、甲府駅からの地図が面白くて、子供のころ、こういう細かい挿絵のある本が好きだったなあとしばらく眺めました。

 

久々の続刊でしたが、話の展開は初期の頃に近く、とても良かったです。

 

最後まで読んでくださってありがとうございました。